会陽といえば、毎年2月の第3土曜日の夜に西大寺観音院で行われるものが有名ですが、この西大寺のいわれについては諸説あるものの、天平勝寶三年二月八日、周防の国・玖河庄の郡司であった藤原泰明の娘であった皆足姫(みなたるひめ)が、観世音菩薩の妙縁を感じ、吉備の国・金陵の庄・松中島に観音像を安置したことが前身といわれています。
また西大寺は、その昔、犀戴寺とも言われ、後になって後醍醐帝が西大寺に改めたとされますが、他にも足利尊氏の時代に、天下が大きく乱れ、人々が徴用されることとなり、文字を習う人が少なくなったため、画数の多い犀戴を嫌い、西大となったという説もあるようです。

さて今回は、西大寺観音院の会陽ではなく、岡山市中区国富にある安住院の会陽についてご紹介しましょう。
この安住院の会陽は、明治の初期にその姿を消していますが、瓶井山安住院禪光寺の創建は、西大寺と時期をほぼ同じとすること(数年早い)、また儀礼についても、相似していると考えられます。
安住院の会陽について岡山市史には、このように記してあります。

瓶井山安住院禪光寺は、市内大字國富にあり。山城國葛野郡仁和寺に属する末寺にして、天平勝寶年中(報恩大師)備前四十八ヶ寺の一として創建す。後文明十年祝融の災あり。同十一年再建、更に慶長年中本堂を今の地に移す。此の時迄は境内今の處より二丁許りの山奥にありしといふ。(吉備温故、東備郡村誌)
同寺會陽の起源詳かならず。然れども慶長以前既に同寺會陽の催あり(東備郡村誌)。寺傳にいふ、初め串午王なる守札を参詣の老若に頒ちしに、階前、階後の雑沓遂に制すべからず。依りて寧ろ一個の守札を一般参集の人に授けんに若かすとなし、爰に初めて真木を投ずるに至りしも、當時裸躰押なるものはあらず。参集せる信徒孰れも衣服を纏ひ、互に真木を手にせんと相争ひたりしが、往々にして怪我人あり。為に慶長六年以後、裸躰押しの動作輕捷なるを選びしと。此くて同年以降正月七日を以て會式の定日と為ししも、中頃正月十三日と變更し、當日より十八日迄六日間、飾物等を陳列し、衆庶の参詣縦覧を許し來りしが、明治三年寺領没収、同四年其の式を廢す。

この瓶井山(みかいさん)禅光寺安住院(あんじゅういん)は、京都・仁和寺の末寺として、天平勝宝年間(749~757)に、報恩大師によって、備前四十八ヶ寺のひとつとして創建されています。
その歴史に、文明十年(1478)に祝融の災いに逢い、翌十一年(1479)に再建されたとあります。
この祝融が意味することは、中国神話の火の神のことであり、火災によって消失したものと考えられます。
そして、その詳細は分からないものの、会陽が慶長年間以前から、同寺で行われたことが書かれています。
この会陽の歴史も、明治三年に寺領を没収されたことにより、終わりを告げたとされますから、仮に今の世に伝えられていれば、日本三大奇祭として西大寺観音院の会陽と並んで称せられるものであったと考えられます。

ところで会陽といえば、宝木の争奪戦が思い浮かびますが、岡山市史等には、
「真木」と記載されていますが、以下、宝木としてご紹介します。
まず、その制作について引用することにしましょう。

「真木の製作」
真木は同寺の住職豫め真木と為すべき適當の用材を山内の山林中に就いて定め、其の年の十二月中旬より晦日に至るの間、末寺普門院の一僧をして夜半其の山林に赴き、長六寸許に切斷して(此時上東郡西大寺の會陽に使用すべき真木をも切斷す)、二つ割となし、小箱に納めて、巻くに大杉原、小杉原、半紙を水に浸したるを以てし、之に龍脳、塗香を封じ、正月七日より十三日に至る十七日間、山内衆徒を本堂に集め、大般若の祈祷を修し、一念加持する定めにて、會式の當夜右真木の外無數の串午王(厚朴の木を細片となし午王法印なる守札を以て巻きたるもの)、をも併せて御福窓より投ずるものとす(寺傳)。かくて真木を得たるものは、豫て吾宿所と定めたる同地の民家に持ち去り、其の家より旨を本院主に通ずると共に、寺よりは撿分の爲め住職其の家に出張す。以前は多く本人自身にて其の真木を祝ひ、祝金として銀札百匁、又は玄米十二俵許を寺中に納付せしも、後年他の富者代りて其の御福を祝するに至れり。(寺傳)

この記載から、会陽の宝木も西大寺の会陽で用いられるものをも、一緒に裁断していたことがうかがわれます。
そして、「會式の當夜右真木の外無數の串午王(厚朴の木を細片となし午王法印なる守札を以て巻きたるもの)、をも併せて御福窓より投ずるものとす(寺傳)」に見られるとおり、午王という守札が尊いものとして、宝木とともに福窓から投下されていたようです。
この牛玉(ごおう)とは仏教世界の中で宝珠を意味し、世の中の万物を生みだすものとされ、西大寺観音院の会陽でも牛玉札を宝木に巻き付けて投下しているそうです。
そして西大寺観音院には、牛玉所殿として、五大明王を牛玉所大権現とし、ご本尊として祀られています。

さて西大寺観音院は、高野山真言宗別格本山・金陵山西大寺ですから、瓶井山安住院禪光寺が、京都・仁和寺の末寺(今は、真言宗善通寺派)ということからも、共通点が見受けられるようですね。

《参照》
・岡山市史 2/岡山市 編/岡山市/大正9
・会陽起原/宮田裕太郎 編/宮田裕太郎/1909
・吉備群書集成. 第參輯/吉備群書集成刊行会 編/吉備群書集成刊行会/1931-1933 

▲瓶井山禪光寺。寺領百五十石。天平勝寶元年創造也。此寺毎年正月十一日夜心木と云ふものを出す。數百人争ひ取る。得るものは有福とぞ。人浮屠の俗を誣るを知らず。又愚哉。(東備郡村志)
▲西大寺。寺領五十七石。寺記に云ふ。天平勝寶年中、周防國久河庄藤氏の女皆足の造創なり。古は犀戴寺の字を用ふ。後醍醐帝今の字に改む。(或は尊氏と云ふ)初を金岡松中島にあり。今に礎石殘れり。
毎年正月十四の夜、心木と云ものを授く。諸國より數萬人集つて之を争ひ採る。得るものは祝賀の供物を備ふ。見物の人數群集す。(以下省略)