高瀬舟、すぐに脳裡に浮かぶのは、明治から大正にかけての文豪・森鴎外の名作でもお馴染みですよね。
冒頭を引用することとしましょう。
 
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞することを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。それを護送するのは、京都町奉行の配下にゐる同心で、此同心は罪人の親類の中で、主立つた一人を大阪まで同船させることを許す慣例であつた。これは上へ通つた事ではないが、所謂大目に見るのであつた、默許であつた。

鴎外の作品では弟殺しの重罪に問われた喜助のお話ですが、高瀬舟は本来、古代から近世まで使われた河川で人や荷物を輸送した底の浅い船のことを指します。
そして岡山では、旭川・吉井川・高梁川の三大河川のみならず、吉井川から倉安川を経由して岡山城下に乗り入れるなど、米穀の輸送を始めとして、岡山県内の運輸の大動脈となっていました。
この岡山における高瀬舟運輸については、角倉了以(すみのくらりょうい)のエピソードがあります。

角倉了以は、京都の吉田宗桂という医者の息子として生まれ、幼い頃から医学について学んだものの、土木・建築に興味を惹かれ、独学で学ぶこととなります。
そして慶長九年(1604)、作州(美作)の和計川(吉井川)を訪れたときに、高瀬舟ががたくさん浮かんでいる光景を見て、どんな川でも船さえあれば、上ったり、下ったりして、交通インフラとして活用出来ると大いに感じ、国内の河川交通の模範とした上で、徳川家康に許可を貰い、全国の河川交通の整備を行ったと言われます。

また、高瀬舟の形をした高瀬舟羊羹といえば、真庭市落合で作られる岡山銘菓のひとつですよね。この銘菓で有名な古見屋羊羹は、公式サイトで明和元年(1764)創業と書かれてありますから、創業250年余りを数える老舗となります。
話が脱線してしまいましたが、今回は旭川の上流から岡山に来ていた高瀬舟についてご紹介しましょう。

まず運賃から、寛文七年(1667)十一月晦日の発令には、「高瀬舟賃一里に就き向後壱匁五分、歸舟は壱匁たるべし」とされ、従来は一里壱匁とされていました。
さらに天和三年(1683)八月十五日発令では、「川船壱艘仕立候ては、上り下りとも一里壱匁五分、但し戻り舟は上り下り共一里壱匁宛」とされました。
また「高瀬舟賃岡山廻りは上りは平瀬邊、下りは福島邊まで遠近の構ひなく貳匁宛」とされ、次いで享保年中に運賃を3割増しとした後、しばしば高率の値上げが行われています。
この値上げの理由としては、年々、川底が流れてくる土砂で埋没することにより、高瀬舟の運航困難が主なものとされましたが、慶応二年七月には、物価高騰の煽りを受け、当時の運賃・1里当たり1匁9分5厘から、一挙4.2倍に引き上げられたこともあったようです。

ここで当時の銀本位制に基づき、今の貨幣価値と比較することとしましょう。
あくまで概算となりますが、江戸時代の換算相場を金1両=銀60匁=銭4,000文とすれば、小判の鋳造された時期により、その価値に変動はあるものの、ここでは金1両=70,000円で計算することにします。
となると、70,000÷60=1166.7つまり銀1匁を1,167円と考えれば、「高瀬舟賃一里に就き向後壱匁五分、歸舟は壱匁たるべし」に当てはめると、

(行き)4km当たり 1,750円
(帰り)4km当たり 1,167円 ということになるのでしょうか。

この運賃が、果たして、高いのか、安いのか、分かりませんが、課金単位を一里としてあるのも、江戸時代ならではでしょうか。

さて高瀬舟によって、県北・美作から旭川・吉井川を経て、米穀・大豆・薪炭・木材・お茶などが運ばれ、岡山からは、塩・油などが運ばれていますが、この米穀については、備前岡山が全国的に有名な米どころであったこともあり、岡山で消費するものではなく、他国への出荷のためとされ、また米相場に影響するとの理由で、岡山へのお米の流入を禁止していたようです。

また反対に岡山に他国から入ってきたものについて、ご紹介しましょう。

享保六年(1721)定制
「縱上方御家中入用之酒取寄せ候節は、船奉行承届、大阪御留守居中へ申遣、酒樽指下げ、同人より川口入切手指越、船奉行裏判にて通可申候云々」「縱大阪御免にて賣酒指下候面々、大阪御留守中より町奉行中へ酒樽數の差紙参候、其指紙樽數と引合相違無之候はゞ、差紙に川口御番人中致印判、川口入可被申候。尤岡山酒宿より酒樽受取候との切手取置可被申事」

やはり、お酒は、上方のお酒が、最も美酒とされたようで、流通量管理を厳しく行っていたことがうかがわれます。
この高瀬舟による河川運輸は、昭和初期まで行われていたようですから、鉄道による大量輸送が可能になるまでの主役だったのでしょう。

《参照》
・岡山市史 2/岡山市 編/岡山市/1920
・インターネットの図書館・青空文庫
・本朝実業叢談/林錬作 著/中央工学校/1919