瀬戸内海の海賊といえば、香川・塩飽諸島の塩飽水軍と愛媛・芸予諸島の村上水軍が有名ですが、戦国の世・宇喜多直家の海賊掃討について、岡山藩士・土肥經平が、嘉吉元年の赤松氏滅亡から起筆し、慶長八年の池田氏が岡山に入るまでのおよそ160年に起った備前国内における戦争の事蹟を記した「備前軍記」からご紹介することとしましょう。
まず、海賊の存在を記した部分から、

児島の南の海上には島々多くものかげあれば、往古より海賊をなすに便よくて、往還の舟世々其難に逢ふもの多し。今亂世に乗じていよいよ海賊横行すること隙なし。其海賊の集まりける所なかにも児島郡日比と邑久郡犬島となり。故に其頃日比關・犬島關と唱て海路通行の難儀の所とせしが、大船に大黒丸・夷丸といふ舟ありて、是にて渡海すれば海賊防ぐることなし。其外も此舟に属せしよしを言て金銀米銭を出して通行せしといふ。いつの年にや、戸板の某といふ周防の國司なりし人、犬島に舟がゝりせしを、海賊是を殺して財寶を奪取りければ、此戸板某の子親の敵を討たむとて兵船を催し犬島に押寄せ、海賊のかくれ住ける岩穴の邉を取圍み、薪木を穴の口につみて悉く燒殺しけるといふ。此事は世に聞えて、謡曲にも作りて戸板といふうたひ則此事也。其外藝州の穂田備中守難風に逢て犬島に舟をかけしに、海賊の為に殺され財寶を奪はれしといふ。又永正の頃にや藝州武田判官元信の臣温科左衛門家親といふ者、上洛して歸りに此犬島の海上を夜中に押通りけるが、例のごとく左衛門が舟へ海賊の舟をひたひたとおし付財寶を奪取らんとせしに、この左衛門世には三十人が力あると言ひしほどの大力なれば、帆柱のけたを取、舟に乗りうつらんとせし海賊を打倒し、其帆げたを取直し賊船を突けば忽二艘をつき沈む。その勢にいかでか敵すべき残りの舟どもみな島かげに逃隱れければ、温科何の難もなく藝州へ歸りける
(一説に、此時京都より千里の濱といふ名石をとりて下り、藝州可部郡の福王寺に納めしといへども、かの寺の記に、此石を寺に納しは、はるかにさき崇光院の御宇の事にて、此時の事にあらずといへば、此事をば註せず。)

戦国という乱世の時代に乗じて、瀬戸内海は様々な島から構成されるため、海賊にとって好都合であり、日比と犬島の海賊が特に有名で、この海賊が出没するため日比周辺と犬島周辺が、難航路とされていたようです。
もちろん、海賊の為すままにされていたわけではなく、海賊に殺された親の報復のため、また反対に退治したことなども書かれています。

ちなみに岡山市史では、児島近海の海賊について、以下を紹介していますが、日比・犬島に並んで、讃岐に塩飽水軍も見受けられます。
この塩飽水軍は芸予諸島(愛媛)の村上水軍と並んで、瀬戸内海を拠点とする名だたるものですし、織田信長も、その海軍力を活用する見返りに、朱印状という特権を与えるなど、後に徳川の世になっても、海上交通の役を担っていました。

①讃岐 引田  永正中四宮上野守。永正天文頃、四宮右近
②讃岐 小豆島 文明中、寒川左馬允元家、同丹後守太郎元政、見ゆ。島田氏
③讃岐 直島  高原左衛門尉、同左助、同文左衛門
④讃岐 乃生  乃生縫殿助
⑤讃岐 牛島  牛島(又作生島)太郎兵衛
⑥讃岐 鹽飽  正平頃、鹽飽三郎光盛。永正頃、吉田彦左衛門。同孫右衛門、
同右衛門尉、宮本助左衛門。同作右衛門、妹尾某、渡邉某
⑦備前 牛窓  應仁元、備前州卯島津代官藤原貞吉。應仁二年。備前州小島津代官藤原廣家
⑧備前 犬島  日本佐奈介。
⑨備前 日比  四宮隠岐守、同主計頭。南海治亂記云、備前児島は四宮隠岐
守守之。又児島日比の戸に四宮隠岐守用意す云々。
⑩備中 連島  永正頃、三宅和泉守國秀。
⑪備中 神島  正平中、北畠山城守師清之に據る云々

さて宇喜多直家の海賊掃討について、再び「備前軍記」からご紹介することとしましょう。

此時宇喜多八郎十五歳にて初陣なりしが、兜首一ツ打取實驗に備へければ、宗景是を賞しける。其後も軍功ありければ、明くる天文十三年八郎元服して宇喜多三郎左衛門直家と名乗て、邑久郡乙子村の邊にて三百貫の地を宛行はる。是其身の武勇と又能家の奮功あるを以てなり。其頃児島郡は四國の細川家に属し上道郡は松田に従ひて、是等より乙子の邊に人數を出し、又犬島邊の海賊までも陸に上て民家を亂暴しなやますゆゑ、宗景より乙子村の山にとり手を築て是をふせがんとす。然るに乙子村の地敵地には隣にて、味方地は遠き所故抱がたく思ひて、宗景の足輕大将等たれ行て守るべきといふものなし。其時三郎左衛門進み出て、某未だ若輩なれども乙子村の邊にて釆邑を給はれば幸に便あり、此城を某に守らしめ給へと望む。宗景是を老臣に議せらるゝに皆可然といひければ、足輕三十人を添て三郎左衛門に乙子城を守らしむ。此時直家十六七歳の時なるべし。其大膽是にて思ふべし。誠に其後は敵乙子の邊へ出るといへども、甲斐々々しく防禦して敢て手さす事なく、後には却て此方より兵を敵地へ出して所々侵略せしかば、宗景是を賞美して猶地をまして三千石を領して城を堅固に守れり。

宇喜多八郎は15歳のときに初陣を果し、兜首を一つ討ち取るなど、功績を挙げたこと、また父である能家の貢献により、元服後、宇喜多三郎左衛門直家と名乗った後に、主君・浦上宗景から、邑久郡乙子村300貫の領地を賜ります。
ここで知行高「貫」について、「旧典類纂. 田制篇」からご紹介しましょう。

貫髙ノ事
鎌倉幕府以来、所領ノ田數を計フルニ、町段ヲ以テセズ、貫髙ヲ以て稱セリ、コノ頃ノ田地の収納ハ、米納ヲ以テセズ、價錢ヲ以テコレヲ納メシム、コレヲ分錢トイヒテ、幾町幾段ノ分錢、錢十幾貫文と定メ、定免ニシテコレヲ収ルナリ

この貫髙制は、所領の土地からの年貢を銭高で表すものであり、同時に領主が家臣に課す軍役の量を表すものでした。
この鎌倉幕府以来使われた貫高制による知行高の表示は、豊臣秀吉の行った太閤検地により、支給される米の石高によるものに変わってゆき、江戸時代を通じで石高で表されることとなりますが、この石高制の場合は、天候等による収穫量で、米価の影響を大きく受けることとなり、却って逆行したかのようにさえ思えます。

さて話を戻しまして、宇喜多直家の海賊掃討について、話を戻しましょう。
さすがに、いかに竹中半兵衛・黒田官兵衛のような戦略家であろうとも、海を拠点とする海賊に、海で立ち向かうことは、不利であったということは言うまでもありません。
犬島から望めば、吉井川河口付近に突出した乙子城周辺は、まさに海賊にとって、海上と同様に侵略目標となったのでしょう。
そして備前軍記には、「犬島邊の海賊までも陸に上て民家を亂暴しなやます」とありますので、図に乗って陸に上がったものの、反対に宇喜多直家に退治されることとなり、まさに「陸に上がった河童」と言えるのでしょう。もし宇喜多直家が、犬島の海賊に海上で戦いを挑んでいたと考えるなら、状況はまるっきり違った展開があったことも考えられます。
とは言え、この連郭式山城・乙子城を足がかりに、戦国大名として、その子・秀家とともに、岡山を発展させたことは言うまでもありません。

《参照》
・吉備群書集成. 第參輯/吉備群書集成刊行会 編/吉備群書集成刊行会/1931-1933 33/257
・岡山市史 2/岡山市 編/岡山市/大正9
・水軍の伝統/松波治郎 著/彰文館/昭和19
・旧典類纂. 田制篇 7/横山由清 編[他]/有隣堂/明16.5