岡山を流れる三大河川のひとつ旭川、古から時とともに流れ続け、今に至りますが、今日は、その旭川に架かる京橋、そして岡山城下の旅籠屋の誕生についてご紹介しましょう。
なぜ京橋と旅籠屋がと思われますが、このつながりについては後ほどご説明します。
京橋については、以前「鳥になりたかった男 浮田幸吉」で、ご紹介しましたが、天明五年(1785)8月に、この京橋から、浮田幸吉が紙の翼で、世界で初めて人が鳥のように羽ばいて飛び立つことに成功したとされています。
そして時代を今の世まで駆け上れば、路面電車も走る光景も踏まえて、ノスタルジックという表現も過言ではないかなと思います。

さて岡山藩第3代藩主・池田継政が、元文二年(1737)冬に、その家臣・和田正尹等5人に命じて、領内における地理・歴史を編纂させた「備陽國史」には、京橋について、このように記載してあります。
 
京橋 橋本町西中嶋町の間にあり。西大川に渡す。いにしへは古京町邉にあり。慶長の此今のところに移す。
 
この京橋架橋当時は長さ68間半(約124.7m)、幅4間(約7.3m)であり、総楠木であったとされ、文禄二年(1593)に宇喜多秀家が、小橋、中橋とともに、初めてこの場所に京橋を架け、その後、何回かに渡って、架け替えが行われていますが、文禄年間以降、寛永年間に至る間は、京橋改築の記録は残っていないようです。
この後、正保二年(1645)二月諸士勤書に再び、京橋架け替えの記述が見られるようになりますが、延宝元年五月十四日に、増水量1丈6尺5寸と、実に10mを越える川の大洪水で、京橋の支柱流出・中橋・小橋ともに流失など、何度も流出し、架け替えを余儀なくされる大きな被害を受けています。

さて、「いにしへは古京町邉にあり。慶長の此今のところに移す」との記載から、慶長の頃までは、古京町にあったことが分かります。
また架け替え以前の京橋については、岡山市史に、
「架替以前の京橋は、今の勲橋の處に架しありしとも、或は古京町より内山下に跨りしともいひ、定かならざれど、旭川の流嘗て瓶井の麓より、上片上町の北を繞りて、南に注ぎしとすれば、勲橋(元土橋)の前身こそ或は京橋ならんか。」と記しています。

ところで京橋の架け替えについて、那須半入という人物が登場してきます。

「宇喜多秀家朝鮮在陣の時、手船にて渡海し、酒三百荷、水母三百桶獻之、秀家大に悦び、半入に所望の事有や、と申されしに依て、京橋を下へさげ、中島へ懸けかへ給はる様と願ふに依つて、其儘自筆の下知状を賜ふ。

 岡山普請町替に付屋敷之事申上通一段感覺候中島において望次第屋敷可遣者也
 文禄二年八月二十一日
                                                        秀家 判

半入

この那須半入が、文禄の役の時に、宇喜多秀家への陣中見舞いとして、自らの船で渡航し、酒300荷、水母(くらげ)300桶を献上したことにより、秀家がたいそう喜び、半入から願い出のあった、京橋を中島に架け替えることを許可したとしています。この時、時を同じくして、他の小橋、中橋も架かったとされます。

さて、この那須半入とはどのような人物だったのでしょうか。
岡山秘帖には、「天正年間、邑久郡福岡在から岡山に來り、始めて西中島にて酒造業を營むものあり、これが酒造の總元締めで當時那須半入又は石切久兵衛(石切半入)とも稱したもの」とあり、宇喜多直家・秀家が、岡山城下の構築にあたり、福岡などから商人を呼び寄せたことに起因すると考えられます。。
ただ一説には、秀吉による備中高松城水攻めの時に、児島五流山伏に応援を請うため、児島に入った際、半入が道案内をしたことによる功績として、西中島を賜ったとも伝えられ、さらに半入という号を名乗ったわけは、彼の髪が半ば禿げ上がっていたため、秀吉が戯れに半入のようだと言ったことからともされています。
そして、秀家へ申し出た願いは、古京町に架けられていた大橋が、西国往来の不自由さの原因であることを述べた上で、中須加(西中島)への架け替え を希望するものでした。
この中須加という古い地名については、諸書に中須加・扇計町と記され、秀吉が備中高松城水攻めの時に、藍屋扇計の旅籠で休憩した折に、扇計のおもてなしを、たいそう気に入った秀吉から望みを聞かれた扇計は、これに答えて、岡山城下には旅籠がないため、人々が宮内まで足を伸ばさないといけない不便さがあることから、当地を旅籠町にと願い出たとされます。
このことにより、岡山城下に初めて、旅籠屋が誕生することとなります。
この後、宇喜多氏から小早川氏を経て池田藩による統治となりますが、池田忠雄の時代の頃には、中島繁栄のため、宿屋株が付与されることとなります。
これにより寛文十年(1670)頃、京橋橋詰道筋北側は、藍屋扇計の独占地帯とされ、南側は売地とされます。

寛文十年に中島町から提出された訴訟書をご紹介しましょう。

「中島町之義者、川手船着にて御座候故、先年より旅人之宿少宛仕候へ共、賑々敷町にて無御座候、宰相(池田忠雄)様御代御町奉行中村助兵衛殿御はからひにて、京橋詰より南のかしはた賣地被爲仰付候。道筋北側は扇計に被遣候。銘々家作り候へと被仰付候。然共商賣可仕様無御座候故、拾六色之旅商人之宿、其外旅籠屋赤前垂の女など御免被爲成、其時右之旅商人餘町に宿候儀停止被仰付、其より中島町賑々敷云々」 

この後、風俗が乱れたことから、赤前垂れの女は、禁止されるものの、正保四年(1647)に時の町奉行から、「當地は西國海道にて候處、旅籠屋無之不自由」とした発令が行われます。
これにより、十六色の旅人に限り、西中島町に宿泊させることとなります。
この十六色の旅人とは、絹売り、綿売り、小道具売り、小間物売り、小刀売り、木藥売り、馬道具売り、唐物売り、古手売り、曝売り、塗物売り、煎茶売り、墨筆売り、足袋売り、通り旅人、諸国より来る萬糶(せり)売りのことを言います。
何れにせよ、自由に旅行が出来なかった当時は、当然、様々な規則が課せられていましたが、延宝六年(1678)九月に宿仲間に申し渡しのあったものをご紹介しましょう。

延寶六年九月宿仲間へ申渡仰之覺
一、旅人一夜限りの儀何によらず宿借可申候其上にても人からを能見届可申候確成者には二夜とも逗留致し候はゞ縦舟待日和待候とも其者國所商ひ家職宗門を相改御公儀様へ御斷切手無相違指上可申候勿論其趣扣帳に留置可申事
一、川口入切手之儀通りかけの者に候とても船頭まかせにいたしむさと切手だし申間敷候宿主直に人柄を見委細逐吟味其上にて切手出し可申事
一、川口女出切手無沙汰仕間敷事
一、出合女圍ひ女之宿一切仕まじく候事
一、小歌浄瑠璃を本立にいたし候商品或は手苦勞ヶ間敷賣物又は辻賣占八卦見申者諸勧進等いたし候には堅く二夜とも逗留させ申間敷事
一、芝居役者野良傾城之儀通りかけのもの相極候はゞ目代組頭へ相斷其上にて宿借し可申候堅く二夜とも留置申間敷事
一、旅人當地へ一ヶ月共逗留致し候はゞ其者國所旦那寺より當地同宗之寺方へ添状取り旦那にいたし宗門請其上當町にて慥成請人手形両通ともに宿主へ取置可申候尤逗留之内橋上見世棚に罷出慮外ヶ敷躰無作法成儀一銭之諸勝負まで堅く不仕候様に可申付事
一、永逗留仕候旅人は宿主より無失念三十日切組頭へ相斷可申候尤罷戻り申刻是又相斷可申事
一、他國より参候諸牢人にむさと宿借し申間敷候宿借し候て不苦ものは此方より可申付事
一、他國之者御國中之者にても公事がましき事或は訴訟がましき事ヶ様成者にむさと宿仕間敷候是又不苦者には此方より可申付事
一、旅人不寄貴賎念頃に可仕候旅籠賃宿賃は相對にいたし高値に取申まじく候自然相煩申時随分精を入宿主才覺に難成儀は目代へ頼肝煎可申附候
一、買物等頼候はゞ直相なれど堅取申間敷事
一、旅人の預り者むさと仕間敷猶以諸道具之賣使堅く仕まじく候若路銭等に詰り賣度申ものに候はゞ目代組頭へ知らせ相談の上にて肝煎可申事
一、何にても合點不参儀に候はゞ組頭へ相尋其上にて目代へ相談可仕事

右之趣毎月二日寄合諸法度相背不申様堅可申合候尤中間月行事相定二夜泊りの吟味毎日可仕候事

 この法令では、2泊以上に渡る場合、国籍(いまでいう国籍とは異なります)、職業、宗教等の届出を必要としました。また役者や遊女については、2泊以上の宿泊を認めませんでした。さらに逗留が一ヶ月以上に及ぶ時には、岡山で宗門請を課すなど、細則が定められていました。

《参照》
・吉備群書集成. 第一輯/吉備群書集成刊行会 編/吉備群書集成刊行会/1931-1933
・岡山市史/岡山市 編/岡山市/大正9
・岡山秘帖/高取久雄 著/吉田書店/昭和6