今回は、津山藩の教育事情についてご紹介しましょう。

吉備群書集成を紐解くと、『𦾔(旧)津山藩の學制』の中に「𦾔(旧)津山藩の學制沿革取調要目」という記載があります。

「藩内學事上の制度」の記載には、「藩主松平康致(明和年間)頗(すこぶ)る文武の學を奨勵するの事蹟(跡)、𦾔(旧)記に散見す。必ず制度の觀るべきものあらん。
然れども、今其詳なるを知る能はず、只條目一二の存する耳。文武の諸藝、大に釐革(りかく)する所あり、一般檢束の法を設く。併せ之を記す。」とあります。
この松平康致は、後に松平康哉と名乗りますが、明和八年(1771)から藩政改革に着手したことでも知られています。
この文面から、松平康致がとても文武を奨励したことが記録に残っているものの、今はその詳細を知ることは出来ないが、規則等が一つ二つ残っているので、文武について改革の助けになろうと考えたことが見受けられます。

岡山県教育史には、「津山藩主松平康哉(初め康致と称す、食封十万石、寛政六年(1794)八月十九日卒す、年四十三)は天資英明、夙(つと)に人君の徳を備へ特に力を文教に注ぎ、明和二年津山城下に學問所を創設した。」とあります。
以前、ご紹介しました熊沢蕃山による花畠教場の開設が寛永十八年(1641)、そして池田光政による日本で最初の藩学である岡山藩学校の開設が寛文九年(1669)ですから、明和二年(1765)となると、約一世紀後のこととなります。
岡山藩学校との比較は次回に機会を譲るとして、史料に残る津山學問所をみてみることにしましょう。
松平康致(康哉)は、文武を重視し、儒学者の大村庄助、飯室武中、植村庄助、河合憲之丞、山下官彌、名越七郎右衛門、軍学者として正木兵馬などを、次々と招聘すると共に、微禄の藩士から選抜した信澤仁左衛門を剣術修行のために江戸・会津に派遣したり、河合十寸茂を儒学者修行として京都へ、そして佐藤八郎左衛門を医術修行として京都・江戸に派遣するなど、藩内からの優秀な者を多く抜擢し、津山藩における文事と武事の発展が始まりました。
 特筆すべきは、同世代の藩士の子弟の文武に渡る藩主の観閲を毎年行ったことに加えて、素読は30歳、武芸は60歳と定めた上で、家老以下、重役はもちろんのこと、下士に至るまで、同じ課題を与え、その成績いかんで、賞罰が与えられていました。とは言うものの褒賞を受ける人が多かったと言います。

 では、まず學問所の御定目、学校規則をみてみましょう。
この規則には、藩士の好学を奨励し、文教をもって、藩政を改革しようと考えた松平康致(康哉)の思いが伝わってくるようです。

 この御定目には、「常に修行を怠ることなきよう」「学問については、多くのことを講師の指図に従うこと」「質問することを恥じずに、疑わしいことは互いに問いただす(但し、自分の意見を主張し、一方的な口論がましいことは固く慎むこと)」「上下間の礼儀」「火の用心」と、まさに現代でも通用する規則となっています。

【學問所御定目】
         定
一、學問所建置候上は、常に無懈怠致修行可申事。
一、學問の儀に付て、諸事可任師之指圖事。
一、不耻下問、疑敷事は、互に問難すべき事。
  (但我意を立、口論がましき儀堅可相慎事。
一、出遭之輩、上下禮義相正可申事。
一、火之元念を入可申事。
 右之趣堅可相守者也。

明和二年(1765)酉六月

そして天明七年(1787)二月朔日には、武道稽古場に対して、「稽古場御定目」を定め、学問と共に武術が肝心となる所以を強調しています
この中には、勝ち負けについての戒め、師範の任命、他流試合などについても、細かく規定するものとなっています。
また細則として、稽古場では何事も師範の指示に従うものとした上で、くれぐれも無作法がないこと、また喫煙についても一切禁じるものとなっています。

【稽古場御定目】
流俗に随ひ、追年式事心懸薄方に成行たがり候、依て此度左之通法を想定、家中之面々、以來文武之本學より諸藝に至る迄、無怠慢可心懸候也。

一、名人・上手の處致修行は急務に者無之候、達者いたし候事、先以武士之急務に候也。
一、敵を悪み、憤を起し、亂心を以て勝負を争ひ、遺恨等におよび候は、武士之有間敷儀、耻辱之事に候。
一、勝をほこり候事、勝負を争候に似、紛敷候得共懸死生候時之修行に候得者、尤に候事。
一、負候儀は、其身未熟故之事にて、全く流技・師匠之不預事に候得者、此旨を致混雑、未練を取飭候者、武士之有間敷儀、耻辱之事に候事。
一、師を選び、致改流候事、尤に候。年去、終身未練にて終候は、不覺悟之咎可申付事。
一、以來劔槍の師範申付候面々は、一家中は勿論、殊に寄候ては、他所者とも勝負を爲相試候上にて申付候間、兼て其旨を可相心得候。
但、人に寄、其身勝負負候は、不得手にても弟子を導候儀、必定功者に候はゞ、猶吟味之上、師範可申付事。
一、兼て文武諸藝・諸流師範之者、高弟之内を致吟味、十人之門弟に候はゞ、是非一人世話代名面申立置、病気故障之助爲相勤、右之内より師範可申付候。
一、修行に付劔・槍世話代之面々、他流試合致候儀、勝手次第に候、ひたすら上手・名人に相成り候様可心懸候。勿論世話代之外、門人之他流仕合は、其師存寄次第に候。乍去、時に取り他流たり共仕合を好、一覽候儀は可有之候事。
 但、師範役之者、他流仕合雖令制禁、一家中之外は申談次第、時宜に寄、可差免候事。
一、劔・槍一流師範役吟味之節は、劔術は劔術而已、槍術は槍術而已、一家中之内、諸流世話代之者呼出し、十本宛之仕合申付、勝負之品歩付を致し、六歩以上勝候はゞ、師範申付べく候。
五歩に候はゞ、又勝負一覽可有候、右之内は世話代之者申合、惣門人を世話可致候、其上にても、勝負五歩に候はゞ、同門之内、一通り他流仕合、一日一覽之上、六歩以上面々も有之候はゞ、猶右之面々之内、吟味を詰、師範役可申付候。若一流門人中にも、五歩以上勝なきに於ては、一流滅亡可爲候問、門人何れ成共、致弟子入、師匠を取可致修行候。尤一流滅亡之節は、其流技之書籍等取集可差出候、秘書方預り可申付候事。
 但、右他流仕合は、一家中限之建之儀に候間、一流之建に不預、劔術はしなへ・而・小手、槍術は直槍は直槍建。十文字は十文字にて、其流技々々之可爲、槍尤面・小手・具足たるべし。勿論劔術は劔術、槍術は槍術、其總師範のもの可致出席候。流技に寄、面・小手を不用、流技は、勝手次第といへ共、相手のもの右に准じ候に不及候事。
一、他方より罷越候養子、或は相續のもの等、劔術之術、一流相極候者は、右家中諸流師範代之者との勝負一覽之上、其身望候はゞ、師範も可差免候。若十本宛にて五歩以下之勝負候はゞ、是家中に有之流技之内へ可致弟子入候事。

但、五歩勝負たり共、四十以上は弟子入之處は可爲勝手次第事。且又、若師範役懇望おゐては、又々勝負之儀可相願候事。

 別に定
一、於稽古場、何事によらず師範之可任差圖、胤々家來不作法無之、下々之儀は、たばこ呑候儀一切可爲無用候。尤稽古場火之元、別て堅可申付候事。
  右、稽古場御定目は、天明七丁未年二月朔日御書付を以被仰出候事。

《参照》
・吉備群書集成. 第五輯/吉備群書集成刊行会 編/吉備群書集成刊行会/1931-1933
・岡山県教育史. 上巻/岡山県教育会 編/岡山県教育会/昭和13