江戸時代において、大名の居城の受け取りが発生するのは、前回、ご紹介しました「越後騒動」を含めた改易に伴うものと、領地替え、つまり転封に伴うものとなります。

この改易に伴う居城受け取りの場合には、将軍の名代として「上史」(家中侍共上意申聞)、伝令役を担う「城請取惣奉行」(御奏者番)、「城請取惣奉行副役」(御詰衆)、監察を担う「目付」などが、幕府側の役割となります。

ただ幕府から大名に対して改易を命じても、直ちにその効力が、国元の家臣団の預かる領地・居城に発効するものではなく、軍事的な背景の下に接収することを念頭に、改易大名領の周辺の大名が動員されることとなります。
そして無事に接収が終われば、新たな城主が決まるまでの間、城を管理する「在番」も命ぜられることがありました。

では、この改易にからむ岡山藩への幕府からの命令による軍事動員を見てみることにしましょう。

実際、岡山藩が改易に伴う居城受け取りに動員されたものは、元和五年(1619)の広島城受け取りを含めて、いくつかあります。
元和五年といえば、元和元年(1615)に、大阪夏の陣が始まり、大阪城の落城とともに豊臣氏が滅びてから、4年後となります。
まさに徳川幕府の創成期におけるお隣・広島城の受け取りについて紐解くことにしましょう。

この改易の一番の事由として、「廣島の城を恣に増築き、天下の大禁を犯すの罪」つまり武家諸法度に違反したものと書かれ、その理由として、安芸広島498,000石の藩主・福島正則が城郭の無断修築を行うとともに、破却宥免条件の不履行のため、川中島45,000石へ移封するとしています。

そして、この時の受け取りについて人員体勢は以下の通りとなります。

上使(家中侍共上意申開)本多美作守忠相
城請取惣奉行(奏者番) 永井右近大夫直勝
同副役(御詰衆)    安藤對馬守重信
同           松平甲斐守忠良
御目付         日下部五郎八
同           加藤伊織
廣島城番        森美作守(作州津山十八万石)
城引渡上使御使番    花房助兵衛

廣島家人及異儀時踏禿候様ニ御下知ニ依て藝州ヘ詰寄ル 各
出雲ヨリ         堀尾山城守忠晴
石州津和野ヨリ      龜井豐前守政矩
石州浜田ヨリ       古田大膳亮重治
長門ヨリ         松平長門守秀就
 右長門守若年故毛利甲斐守秀元陣代
備前ヨリ是ハ備中マデ出張 松平宮内之輔忠雄
 右面々ニテ猶又日ヲ重人數不足時ハ永井右近大夫安藤對馬守指圖次第ニ早速
 馳向ヒ責候様御下知ノ輩
豐前小倉         細川越中守忠興
因幡           松平新太郎光政
伊豫           加藤左馬之助義明
讃岐           生駒讃岐守正俊
阿波           松平阿波守忠英
 右詰寄ノ大小名在府ノ輩ハ歸國
豐前竹田ヨリ       竹中采女正 壱万五千石領ス
(福島正則遠流に付藝州廣島城引渡覺)

また、この広島城受け取りについて、岡山藩士・大澤惟貞の記した吉備温故秘録にはこのこのようにあります。

≪安藝國廣島城請取≫ 

福島左衛門大夫正則は、天下太平の後、安藝・備後両國を賜り、廣島へ入部。其後段々官位昇進、参議となり、両國合四十九萬八千二百石にてありければ、位といひ、禄といひ、榮花少なからざるに、段々悪行超過し、両國の民苛政に苦しみ、離散するものもあり。殊に廣島の城を恣に増築き、天下の大禁を犯すの罪に依て、天和五年己未六月二日奉書を以其罪條を仰出され、國ことごとく没収せられしかば、廣島の城請取として宮内少輔忠雄公(外に加藤左馬介・本多美濃守・森美作守・松平阿波守・生駒讃岐守・松平土佐守也。)廣島に發行ありければ、此時に烈公より湯淺右馬允を御附使としてさしむけられる。湯淺、忠雄公に相したがひて廣島に行き、城請取滞なく済みければ、やがて因州へぞ歸りける。

(此時、池田備中守長幸殿には、備後國三原城の在番勤めらる。)

この改易に伴う居城受け渡しに伴い、幕府側の人員はとは別に、周辺地域の各大名が動員されていることが分かります。
「廣島家人及異儀時踏禿候様ニ御下知ニ依て藝州ヘ詰寄ル」に見られるように、
改易となる福島側の異議があった場合に備えて、まさに四方を固めています。

ちなみに岡山藩の動員は、
「備前ヨリ是ハ備中マデ出張 松平宮内之輔忠雄」と、藩主・池田忠雄が備中まで動員されています。
また、この後、転封により岡山藩主となる鳥取藩主・松平新太郎光政には、「猶又日ヲ重人數不足時ハ永井右近大夫安藤對馬守指圖次第ニ早速馳向ヒ」と記されているように、受け取りに日にちがかかり、人手不足の時の第二出動の命がくだされることとなりました。
この時、光政は、湯淺右馬允を連絡係として池田忠雄に随行させています。

ところで、改易を命令した幕府側からではなく、命ぜられた広島側からも見てみることにしましょう。

大夫殿御身體果候次第

一、元和三年丁巳年、廣島大水出、御城三の丸迄、水つき候事。

一、明る午の後五月に、大夫殿へ御暇出、歸國之刻、本多上野殿を御頼、廣島の城大水に破損仕候間、普請仕直し申度候、此旨被仰上被下候様に頼置、歸國被仕候。上野殿折を以可申上由被仰候。其秋も大夫殿より右之通被仰上被下候様に、飛脚を以御申遣候得共、又其節も折を以可申上との御返事に候。
然處明る正月廿四より普請に取かゝり、矢倉塀打こわし、石垣をつき直し、二月中に大分の普請過半出来、三月九日にははや参勤とて、廣島出舟被成、江戸へ三月下旬に参勤被勤、早速御目見へ被成候。
[福島大夫殿御事]

この内容からは、元和3年の台風による水害のため、三の丸まで被害を受けたことにより、時の老中・本多上野介正純に、城の修復を申し出ていることが、読み取れますので、本多正純が「折を以可申上」と機会があるときに綱吉に上進する旨を返答していることから、わざと上申をしないことで、執政側が意図的に改易の理由としたとさえ思われます。とはいえ幕府側から正式許可を待たず、本多上野介に2回に渡って申し出たことを過信したため、フライイングしたことは、幕府側につきいる隙を与えることになったのでしょう。
 この本多上野介は、徳川家康の側近であり、大坂冬の陣の後、豊臣秀頼と和睦した際に、大阪城の内堀を進言した策士とされますから、福島正則の改易を目論んでいたのかもしれません。
そして、この本多上野介正純も、将軍・綱吉の不興を買い、この3年後に下野宇都宮155,000石から出羽庄内に配流となっています。

これ以外にも、岡山藩の居城受け取りは数多く存在します。
さらに吉備温故秘録から、いくつかご紹介しましょう。

≪讃岐高松城請取≫
寛永十七年庚辰、讃州高松の城主生駒壱岐守家滅亡しければ、城請取として關東より靑山大蔵・井上筑後守・加藤出羽守下向ある。烈公より御使者として、池田河内を命ぜられて渡海す。是靑山と河内は縁者たるにより、かたがか以て遣さるゝといふ。
 井上壱岐守高俊は、讃州高松に在城し、十七万石餘を領し、位は従四位下侍従なりしが、性魯鈍にして、善悪貴賤の差別を辨へず。これに依て、自然と家中の諸士風俗悪しく、我儘のみ多し。分て江戸家老石崎若狭・前野助左衛門仕方宜し狩らず。罪なき者も、己が気に入らざれば、非法を申かけ追放し、或は隠居させ、國中の下民までをはたき取り、人民飢餓におよびければ、國家老生駒将監此旨江戸公儀へ訴ければ、壱岐守愚味魯鈍成儀は、兼て達上聞ぬれ共、先祖の忠功に被爲封、知行も相違なく相續被仰付、然に國家の混亂、仕置の善悪をも不辨、助左衛門が程の悪人を知ずして、一身のみ樂事、其科輕からず。死罪にも仰付らるべけれ共、格別の生付故不便に思召され(本書出書)由利へ仰付らる。(後年に一萬石を賜り再び召歸さる。子孫今交代寄合也。)さて前野助左衛門は一類迄御助役、石崎若狭は切腹、前野に組する者は切腹追放數しれず。

 この高松城の場合、藩主・井上壱岐守高俊の無能さに、新参の重役である江戸家老石崎若狭と前野助左衛門と譜代の家臣が巻き込まれた、江戸時代初期に起きた、いわゆるお家騒動となります。
「生駒騒動」と呼ばれるこのお家騒動は、藤堂高虎も、その役割を担っていますが、今回は省略します。
結局、窮状を見るに見かねた國家老・生駒将監が、このことを幕府に届け出ることになりますが、壱岐守の行状について、幕府は既に情報を掴んでいたものの、先祖の忠功を考慮した上で、本来は死罪に値するとしたものの、由利への配流とします。江戸家老・前野助左衛門、石崎若狭については、加担したものについても、その多くが切腹・追放の厳しい裁きとなりました。
 幕府から派遣された青山大蔵少輔幸成と岡山藩家老であった池田河内長政が縁者だったこともあり、池田光政が使者として起用したことが記されています。

次に岡山藩周辺では、備中松山城主・水谷出羽守が元禄7年正月に病死しますが、嫡子がいなかったため、お家が断絶します。
この時の城受け取りに命じられたのは、後に「忠臣蔵」でもお馴染みの赤穂城主・浅野内匠頭でした。

≪松山城請取の節一件并安藤對馬守入城≫

備中松山城主水谷出羽守、元禄七年正月病死。嗣子なくて家絶ぬれば、城請取として浅野内匠頭(赤穂城主)趣かれける。
上使は堀小四郎・駒井内匠兩人なり。是によつて津田左源太に御使を命ぜられ、組頭安田孫七郎、鐵砲引廻し大原半之介・今井勘右衛門、足輕共召具して、二月二十一日岡山を發し、此夜備中宍粟村に宿し、あくる二十二日早天こゝを發し、午の刻此松山に至り、兩史旅宿門前にひかへ、谷田文内を以て、堀の取次前田惣左衛門まで、松平伊豫守使者罷越候、それへ参べきか、但御出迎の上口上申べきやと尋給ひしに、只今小四郎城見及に罷出留守に候、此へ御出あるべしと返答にて、直に行て御口上をぞ申置ける。駒井の旅宿にても同様にて、御口上は取次、石原左兵衛に申置ける。扨浅野内匠頭はいまだ到着なければ、安田孫七郎を先浅野の家臣伊藤五右衛門が旅宿に遣し、使者つとむべき趣申入ければ、内匠頭着の上左右次第御使者つとめらるべしと、返答にて相待ける所、同日未の刻過内匠頭着ありければ、又左源太みづから大石内蔵助が旅宿に行對面し、松山引取り首尾等談じ居ける所へ伊藤より使して今晩は内匠頭上使衆と出合、御輿共有之仕廻次第左右可申由にて、其後左源太内匠頭の旅宿に行き、取次佐藤伊右衛門を以御口上を申入ければ、内匠頭早速出られ返答あり、其次に、其元の事兼て承及候との挨拶なり。同二十三日兩史に對面し、皆直答なり。此日巳の中刻城請取無滞濟て、兩史發足のよしなれば、愛知門兵衛を以て、兼て當地引取候段、其元迄御案内可仕積に候處、兩史宍粟御通行に付、被地船場へ出置候へと、伊豫守より申付候間、只今罷歸候由、大石内蔵助迄申遣史、船場の事裁判し、同二十四日岡山に歸り、二十五日朝曹源公へ御直に右の旨申上げる。同三月十日内匠頭より小袖三つ、左源太におくられしといふ。
(以下省略)

この時の上使は、目付の堀小四郎・駒井内匠であり、城受け取りは、赤穂藩主・浅野内匠頭という布陣でした。
広島城の受け渡しの場合、改易を伴うものでしたが、備中松山城の場合は、跡継ぎがいなかったための、お家断絶によるものであること、加えて、家の格式が考慮された結果の陣容だったと考えられます。
とはいえ、岡山藩から、藩主・池田綱政の使いとして立ったのが、津田左源太(永忠)であり、城受け取りの段取りについて、赤穂藩家老・大石内蔵助と打ち合わせをしたこと、また浅野内匠頭が、永忠について、かねがね聞き及んでいたと述べていること、そして無事に終わってから、褒美として小袖を贈ったことなど、興味深いものがあります。

この他、元禄十年の作州津山城受け取り、元禄十一年の備後福山城受け取り、そして元禄十四年には、江戸城内における浅野内匠頭長矩の吉良上野介への刃傷が起こり、内匠頭が切腹し、お家は断絶となったため、赤穂城の受け取りが行われることとなります。

《参照》
・吉備群書集成. 第拾輯/吉備群書集成刊行会 編/吉備群書集成刊行会/1931-1933
・江戸時代興隆期/高須梅渓 著/早稲田大学出版部/大正11
・近世日本国民史徳川幕府上期. 中巻 統制篇/徳富猪一郎 著/民友社/大正13-14
・硯堂叢書/福羽美静 (硯堂) 著/八尾書店/明28.3
・徳川幕府時代史/池田晃淵 講述/早稻田大学出版部/