江戸時代においては、歴史上において「幕藩体制」といわれる徳川幕府を頂点とし、諸藩が地方で人・土地を支配する封建的主従関係でした。
各藩において、独自の産業振興策が行われたのは、もちろんのことですが、岡山には、熊沢蕃山、津田永忠とならび偉人とされる山田方谷がいます。
この山田方谷は、幕末期の陽明学者であり、「理財論」および「擬対策」の実践で、備中松山藩を財政難から救ったこと、そして何よりも「至誠惻怛(しせいそくだつ)という行動規範で、御存知の方も多いと思います。
今回は、安政万延の頃(安政年間は1854~1860)に、山田方谷が、藩内の産物について示した七ヶ条をご紹介することとしましょう。
【産物に關し訓示七ヶ條】

取一同へ示候大畧

一 御城下繁榮遊民共の産業を立金銀他方より取込候爲己にて上の利益を不斗縦令失費と成候ても無厭後世永年の基業立候己に心を用候事

古來にては會津神公近来米澤鷹山公等の明君方此主意を以國産を盛にし何れも山中の城下領分中を富し候事

一 上の利益を己斗るより起り候へ共其法嚴正にして永久の業を遂候處より國斗饒裕に及自然下民迄も澤を蒙り候事

近來にては雲州并大津なとど産物の業是に近し

一 上の利益も斗り候へ共第一は金銀融通國斗眼前の窮を凌候為に起候事

右は不得止の斗より起り其意は國家の為にて役人の私を斗るにはあらされども其本淺き故永久の業を成しかたし

一 國斗眼前の窮を救ふ爲産物を名として金主を付け金銀を借り出す為のみに候事

右近世の諸侯家比々皆然る事にて論するに足らづ乍恐御富家にても先年半紙の業を企候も是のみ

一 銀札融通の爲にのみ起す事

是も近年の流行ものにて論するに不及備前の木綿尚近頃中津井の刻煙草皆是のみ

一 役人私利の為に起す事

此に至ては姦吏の爲乱朝の政にして別て論するに不及とも近来の諸侯家其ためし無きにあらず是始は其意に非すして後來の弊こゝに至るも少からず是れ戒むべし

一 姦商の斗より起る事
是亦乱朝の政を伺知て此斗を生するにて尤可悪の至なり役人には爲差姦は無之私利も斗らざれとも此斗に陥るは愚昧の罪迯るへからず乍恐先年鐵の御法の如き御當家にても此斗にあらすというへからず

右七ヶ條皆始を開き候主意尤大切の事故如此書書分け候事

(右安政万延の頃なるへし山田方谷先生の教誡なり)
この七ヶ条には、山田方谷の武士階級だけではなく、農民・町民にいたるまで全ての領民を富ませることが国を富ませることとなり、活力を生むことになるという考え方が根本にあります。

会津神公(保科正之)、米澤鷹山公(上杉治憲)という名君が、領内の産業を奨励し、藩の経済を潤わせたことを例示し、たとえ先行投資という形で、すぐに結果を生まないものであっても、後世の産業育成のために大事と説きます。
また「國斗眼前の窮を救ふ爲産物を名として金主を付け金銀を借り出す為のみに候事」と記されるとおり、今でいうブランド戦略を行ったのは特筆すべきことでしょう。
この「産物を名として金主を付け」とは、特産品に「備中」の名を付け、全国展開を図るものとなり、特に「備中くわ」は大人気だったと言われます。
まさに、未来を先取りしたとても経済的効果のあった政策だったのですね。
この山田方谷による藩政改革により、わずか8年という短期間で、経済的窮乏からの脱却が出来たことは、驚くべきことですし、もし今の日本に、この山田方谷がいたなら、日本の借金「1071兆円」※はもしかしたら返せるのかもしれない、そう思うのです。
《参照》
・魚水実録. 上巻/国分胤之 編/旧高梁藩親睦会/1911
※財務省が5月10日に発表した今年3月末時点の残高
(国債や借入金、政府短期証券を合わせた国の借金の残高)