今回は、備前焼のルーツとされる須恵器と岡山についてのぞいてみることにしましょう。gazou2-7gazou1-6
日本六古窯として、瀬戸、常滑、越前、信楽、丹波、備前がありますが、中でも一番古いものが、須恵器がルーツといわれる備前焼となります。
吉備群書集成に収録された幕末期の国学者である平賀元義著「吉備之國地理之聞書」から読み解くことにしましょう。
この平賀元義は、岡山の人であり、かの正岡子規に「万葉集以来唯一の歌人」と評された人ですから、その足跡を訪ねるのもまた良いと思います。

<土師部>
崇神天皇御代出雲の土師部(はにしべ)※1 を召て埴輪を造らしめ、國々へ分ち置かれしこと古事記・書紀・新撰姓氏録・其餘諸書に見えたり。埴輪を名づけて立物といふ事、書紀に見えたり。其土師部、又祭器を造ること類聚國史に見え、又諸書にも見えたり。倭名類聚鈔※2に、陶器すゑうつはものとあり※3。
倭名類聚鈔郷名に曰、備前國邑久郡土師(反之)須惠、今案に、土師郷は祟神天皇の御代に出雲國より出でし土師部の住める處なり。須惠の郷は、其土師部が陶器を造れるよりいでし郷名なり。大化元年(645)に始て郷を置かれ、又陶器を造る處なれば須惠郷を置かれて、土師郷と須惠郷と二郷に分れたり。今須惠郷と土師郷との境釜ケ原といふ處に、古伊部の陶器多く散り残りたるあり。此處古土師部の陶器を造りし處といふ。今の和気郡の伊部の土師部は此釜ケ原より出で、後に今の伊部に移りしものなり。今の伊部官道となりし時より移りしものなるべし。今川了俊の道行ぶりに、香登といふ里は、家ことに、玉だれの小かめといふものを造る處なりけりとあるは、今の伊部に移りし後の事なり。扨、伊部の土師部ともいふはふこ陶器をすべて立物といひ来りしなるべし。但し、祟神天皇の御代に、埴輪を立物と名づけられし其名の今に残れるにて、土師部か先祖の時より立物といひ来りしなるべし。又、今の伊部の土師部は、古より邑久郡石上郷※5 の波底の土を取つて陶器を造る。是れ土師須惠の二郷に居りし時よりの事なり。陶器を造るに波底の土を用ゆる事は、古事記の神代の傳へにも見えたれば、陶器を造る土は海底の土をよしとするなり。延喜式大嘗會※6の陶器は、備前國の陶器に限りたる事も、いとふるき御世よりの事なるべし。今伊部の土師等、祓をし注連※7 を引などして造るも、古の遺風なるべし。又延喜式に、毎年の貢物の中に備前國より陶器を奉ること委敷見えたり。皆邑久郡土師・須惠の二郷より奉るものなり。
(以下省略)

この崇神天皇の御代から始まる書き出しで、おやっと思った人は、邪馬台国・卑弥呼と結び付けられたのかも知れません。
邪馬台国論争は、さまざまな説がありますので、古事記・日本書紀に記された第十代の天皇として話を進めることにしましょう。
古事記・日本書紀などに、崇神天皇が、土師部に埴輪を造らせ、また埴輪の異称である立物(たてもの)という記載が日本書紀に書かれているとしています。
また平安時代に書かれた源順著の漢和辞典である倭名類聚鈔には、陶者(スエモノツクリ)※4 としての記述が見られます。
日本の焼き物の歴史は、(古代)縄文式土器⇒弥生式土器⇒土師器⇒須恵器と変化を見せますが、この中でも土師・須恵という今の焼き物のルーツが見られるのも興味深いものがありますよね。
この祟神天皇の御代、出雲から来た土師部が住んでいたのが、土師郷の起こりとされ、土師部が陶器を造ったところに由来して、別に須恵郷と呼ばれるようになったとあります。
さて倭名類聚鈔には、邑久郷、靭負郷、土師郷、須恵郷、長沼郷、尾沼郷、尾張郷、杯梨郷、石上郷、服部郷の10郷が記されていますが、この土師郷・須恵郷について、現在では、それぞれ瀬戸内市長船町土師・長船町西須恵・長船町東須恵として、その名を伝えています。
また「今須惠郷と土師郷との境釜ケ原といふ處に、古伊部の陶器多く散り残りたるあり。」と記されている通り、瀬戸内市と備前市には、飛鳥~白鳳時代を中心に、西日本有数の須恵器生産地として、国の史跡である「寒風古窯跡群(さぶかぜこようせきぐん)※4」を筆頭に、「邑久古窯跡群」が広がります。
ところで、「今の伊部の土師部は、古より邑久郡石上郷※5 の波底の土を取つて陶器を造る。」と書かれてありますが、時は流れて現代の世、備前焼で一番大切とされている土は、「ヒヨセ」※6 と呼ばれる田んぼの土に、長船町磯上の黒土をまぜて作るそうです。
つまり邑久郡石上郷(現在の長船町磯上)の土は、当時から陶器造りに最適だったことがうかがわれます。
さて備前で産する陶器の質がいかに評価が高かったことについては、「延喜式大嘗會 ※8 の陶器は、備前國の陶器に限りたる事も、いとふるき御世よりの事なるべし。」「延喜式に、毎年の貢物の中に備前國より陶器を奉ること委敷見えたり。」と書かれてあることからも、とても古い時代から延喜式に大祀と定める最も重要な儀式・大嘗會で使われる陶器が備前国の陶器に限るとしていたこと、などからもうかがえます。
そして、この古からの流れを今に伝える備前焼は、まさに岡山だけではなく、日本の宝と言っても過言ではないでしょう。

《参考》
吉備群書集成 吉備之國地理之聞書 平賀元義著 吉備群書集成刊行会, 1933

※1
古代の部曲 (かきべ) の一。土器や埴輪 (はにわ) を作り、葬儀の仕事にも従事した。はにしべ。出典:デジタル大辞泉

※2 倭名類聚鈔
源順著の漢和辞典。10巻本とそれを増補した20巻本があり、20巻本は漢語の名詞を天地部より草木部まで32部、249門に分類配列し、出典、音注、説明、和名を注記した、一種の日用百科辞書である。室町までの古写本が多く伝わるが、版本としては元和3年(1617)に那波道円が校訂刊行した20巻本の古活字本が出、以後、慶安元(1648)、万治2(1659)、寛文7(1667)、寛文11、貞享5(1688)と整版本がでるが、すべて道円の校訂本である。当該本は寛文7年村上勘兵衛の版で、慶安元年本の版木を使用した後印本である。全巻にわたり、本居宣長の校合本と古写本で校合した生川春明の書入れがある。(岡雅彦)(2016.2) 《国立国会図書館デジタルコレクション》

※3 陶者(スエモノツクリ)
荘子云陶者月我治埴(陶桃反)訓(須惠毛乃豆久流)黏埴爲器者俗呼爲造手陶者是呼(倭名類聚鈔)

※4 寒風古窯跡群
岡山県瀬戸内市牛窓町にある窯跡。旧邑久(おく)郡一帯に広く分布する邑久古窯跡群を代表する窯跡である。薪の灰とともに焼成に失敗した陶器などが出土しており、長年にわたる調査の結果、低丘陵斜面の4ヵ所につくられた5基の窯跡と、南斜面にある1基の古墳、寒風池南東の丘陵上の工房跡と考えられる建物跡からなることが明らかになった。7世紀初頭から8世紀初頭の約100年間にわたって須恵器(すえき)などが焼かれていたことも判明した。窯は山の斜面にトンネルを掘ってつくられ、長さ10mを超える登り窯である。出土品は、高杯(たかつき)・提瓶(さげべ)・長頸壺(ちょうけいこ)・甕(かめ)など膨大な数になり、陶棺、鴟尾(しび)、硯(すずり)などもある。ここで焼かれた須恵器が奈良の都からも出土し、単なる地方窯ではなく、半官窯的な性格をもった窯であることがうかがえる。飛鳥時代~白鳳(はくほう)時代を中心に、西日本有数の須恵器生産地として、1986年(昭和61)に国の史跡に指定された。出土した須恵器類は、吉備考古館、寒風陶芸会館に保管・展示されている。JR赤穂線邑久駅から東備バス「小津」下車、徒歩約20分。 出典:国指定史跡ガイド(コトバンク)

※5 邑久郡石上郷(岡山県)
郷域は現在の長船町磯上を中心とする地域に比定される。(p111)出典:千年村プロジェクト

※6 備前市公式サイト参照 http://www.city.bizen.okayama.jp/kids/qa/qa_2.html

※7 注連
《動詞「し(占)める」の連用形から》
1 「注連縄(しめなわ)」の略。
2 領有の場所であることを示したり、出入りを禁止したりするための標識。くいを打ったり縄を張ったりする。
「大伴の遠つ神祖(かむおや)の奥つ城はしるく―立て人の知るべく」〈万・四〇九六〉出典:デジタル大辞泉

※7 大嘗會
「おおにえのまつり」とも読み、大新嘗ともいう。天皇が即位後最初に皇祖および天神地祇 (てんしんちぎ) に新穀を供え、これを食べる儀式。一世一度の新嘗 (にいなめ) 。即位式が7月以前ならば年内に、8月以降ならば翌年に行うことが、平安時代に定められた。出典:コトバンク