池田光政が、王学(陽明学)を信奉したことは、前にも述べましたが、社寺廃合について、岡山市史からご紹介することにしましょう。

光政夙に儒を信じ、下民亦上の好む所に従ひ、佛を去りて、儒に歸するもの甚だ多し。然るに従来宗門請は、菩提所の僧侶に一任せしを以て、士民佛を去るも宗門請の一事に至りて、猶ほ寺院より離るる能はざるの不便あり。依りて寛文六年(1663)八月三日自今儒に歸するものは、産土神の神官をして、宗門請をなさしむるの令あり。且つ光政自ら其の案文を草して、國中に頒たる左の如し。

(池田家履歴署記)

《宗門請の一例》
何郡何村の某只今迄何宗にて何郡何村の何寺旦那にて則請状取指上申候得共當三月何日より儒道に赴神道を尊び生所神(他國之者上同噺)何宮を信し申候吉利支丹にては無御座候若有残成義御座候はゞ私罷出埒明可申候依爲後日如件
年  月  日

何郡何村何宮神主 某
(概略:今まで○○寺の檀家であったが、今回、神道に帰依することとし、産土神をお祀りした○○宮を信仰することとなった。また決してキリシタンではない云々)

この通達には、光政が王学(陽明学)を信奉したため、下々の人にいたるまで、仏の教えを捨てるものと誤解し、儒教の教えに帰依する人がますます多くなり、加えて葬祭にいたるまで取り決めが行われたため、その弊害が拡大することとなりました。
特に従来、宗門請として行われていた菩提寺の住職に一任されていたものから、産土神の神官に宗門請を行わせたのが特筆されます。
とはいえ光政の行った本当の狙いは、必ずしも仏教を排除することではありませんでした。
このことについて、岡山市史からさらに引用することとします。

権現様の上意に神儒佛共に御用ひ被候との義也神道は正直に清浄成を本とし儒道は誠にして仁愛成を學び佛道は無欲無我にて忍辱慈悲を行ひとす三教共に如此なれば縦令教は品々有とも世に害あるべからず今時神道儒道は哀微なれば善悪の見るべきなし佛法はさかんなれども坊主たる者多くは有欲有我にしてけんとん邪見なり己が不律破戒の言わけには各我等如きの凡夫善行をなす事ならず欲悪ながら阿彌陀を頼極楽に生す題目だに唱ふれば生佛すと云ふ是人に悪を教也自今以後如此の邪法を説て人心をそこなひ風俗を不可亂事
一 何とつたへあやまり候哉國中の佛は及迷惑候由國中に住者は皆國主一人を頼居候得ば何者によらず我育むもの也あしき者とても今までおしなべてあしきは我あやまちなれば彼をにくむへからず今の佛道の教は権現様の御用被成し御意の佛法にはあらず今のごとくなれば必破却可被成候たとへ本は能共に當て害あらば其害をば除かで不叶義也今の佛法のまどひさをさとり神道の正直儒學の大道に趣かんとおもふ者心次第可爲然ども心衝躬行こそ替る者也さもなくて法をかゆるやう成事は甚し坊主の流浪不仕様に可申付事
一 <省略>比丘尼の多きは國民を飢寒せしむる本なれば非をさとり還俗する者はすぎはひをあたふべき事
一 <省略>坊主たる者邪法をだになさずば墓守と心得て養置べき事付愚癡の僧侶をすゝめて急に佛法をそしり神儒に入ることなかれ<以下省略>
一 神道は正直を先とし儒道は誠を本とす誠成時は明也明成時は正直也我民たらんものは心に誠を立てゝ迷をはらし正直を失るなかれ心だによくば縦令いはいこりんは佛氏の流たり共可也時節あるべき物也心もしらで事のみ儒者の學びをなさばこれ又名の違ひたる佛者たるべき事
一 社家佛者にかはりて黨をなすべからす不測の神道に背てみだりに祈祷をなし人の財をやぶるべからざる事
<以下省略>

つまり光政の考えは、必ずしも王学(陽明学)という儒教の教えに基づいて、仏教を排除したのではなく、徳川家康の「神儒佛共に御用ひ被候」の考えの下、神道・儒教・仏教の3つともに用いることにありました。
とはいえ徳川家康の時代から時は流れて、堕落した僧侶が見受けられるようになったこともありますが、あまつさえ光政による儒教崇拝が岡山藩の藩是となったこともあいまって、寺院から離壇するものが多かったといわれます。
なお光政が寛文七年(1664)に、時の老中であった酒井雅樂頭に内示した覚書には、寺院1,044、僧侶1,957人、寺領2,077石余りのうち、不受不施派の嫌疑を理由に、313の寺院、僧侶585人が追放され、更に250寺院、僧侶262人が還俗、または追放とされ、結局、寺院481、僧侶1,110人、寺領1,937石余りとなりました。
また、この僧侶の還俗にあっては、お米を若干支給することにより、奨励しています。
この仏教の排除に伴う神道への光政の対応ですが、寺社廃合の翌年の寛文八年(1665)に神前の作法として、邪道に属する死人の口寄せなどを禁止し、吉田家相伝の作法に拠るものと定めています。とはいっても人々に深く根付いていた迷信を完全に封じることは出来ませんでした。
結局、この流れは明治維新まで続くこととなります。
《参考》
岡山市史 大正9年発行