“もやし“と聞くと、皆さんはお野菜のもやしを思い浮かべることと思います。
なんと醸造業界で“もやし“と呼ばれるものは、種麹なのです。
業界サイトでは、麹菌が芽を出し白っぽい菌糸が伸びていく姿は、まさに食べる「もやし」そのものであり、木々が芽吹く姿にも似ていることから、その時使われる「萌える」という言葉を語源としてモヤス(シ)になったとも言われていますと説明しています。※1
この種麹屋さんは、日本全国を見渡しても、数軒しかありませんので、実に貴重なものですね。
私が実際に種麹屋さんを知ったのは、京都・六波羅蜜寺さんのすぐ傍にある慶応五年(1869)創業の菱六さんの看板に”もやし“の文字を見つけたことでした。
さて岡山には、さまざまな売買株が存在し、以前、お酒のお話しの中で、酒屋株について説明しました。
今回は、伝統的発酵食品である日本酒・本格焼酎・みりん・味噌・醤油・酢・甘酒など日本の食の素材を作るために不可欠な麹を扱った麹屋についてお話しすることにします。
岡山市史によれば、児嶋町麹座が紹介されていますが、その起こりについては詳細が不明とされます。
とはいえ享保年間に児嶋町名主の書面によれば、岡山城下の草分けの頃、児嶋郡郡村の人が移住してきて、初めは紙屋町(現在の岡山市北区表町)で麹屋を営み始めたものの、室屋と呼ばれる草葺の建物があったことから、中国神話の火の神である祝融に因み、火事に巻き込まれるとの懸念から、紙屋町から遠い場所に移転したようです。
この麹は、原料となる米、麦、大豆などを蒸し、麹菌を付着させ、麹菌の育成に最適な条件下で培養したものですが、その原料の相場に左右されたことは言うまでもありません。
萬治元年(1658)十二月に、麹直段(ねだん)が制定され、以降、町名主が、焼印の直段札(ねだんふだ)を麹職人に交付し、米相場に応じて、町奉行許可の下に、麹の値段を
決めることとなりました。
もちろん規定に反した場合、町名主が取り調べた上で、30日間の麹職停止を言い渡していました。この後、定められた値段を守らない者が出てきたため、悪質な者には、直段札の取上げが行われています。
なお延寶二年(1674)十月に初めて町奉行から交付された麹屋株木札は、麹職人が郡部を行商する時、また原料となる米を買入れするときに携帯することを義務とされていました。
その雛形をご紹介しましょう。

一 御郡方ゞ御年貢不濟内御法度之米取申間敷事
一 麹直段時之米相場ヲ以相違無之様ニ賣可申事
一 室蓋寸法並麹米抜業仕間敷事

この中でも麹の値段は、米相場に連動し、間違いのないようにと念押ししていることからも、当時の米相場がいかに重要なものであったことを物語るものでしょう。

《参考》
岡山市史 大正9年発行
※1 樋口松之助商店公式サイトより