現代のように新幹線・飛行機といった大勢の人が一度に高速移動ができる手段、また高速道路網の整備により車で日本全国に割りと簡単に行ける時代と違って、これらがなかった江戸時代は、駄馬・人足・舟楫が輸送機関となり、備前領内では、吉井川・旭川を高瀬舟が大動脈となって、米穀、薪・炭など生活必需品の運輸を担っていました。
さて今回は、特に舟による回漕についてお話しましょう。
まず備前領内の運輸系統については、この両河川を経由して、美作から米、薪・炭などが、美作には米、塩などが輸送されていました。
この吉井川と旭川を中心とした備前領内の運輸系統については、延寶七年(1679)に、両河川を連結する倉安川が開鑿されています。
そして、この運輸系統は、主に年貢米、知行米が主な荷物なっていました。
当時、吉井村から花畠までの倉安川は、流域の田圃の潅漑に使われるとともに、運河として運輸網の一端を担っていました。
この輸送機関となったのも高瀬舟でしたが、高瀬舟一艘につき、銀二匁の運上(運送上納)が課せられていました。
中でも吉井川沿岸で取れる年貢米は、金岡等の藩の蔵に納められるものを除き、その殆んどが、この倉安川ルートで岡山に輸送されていました。
この倉安川ルートのメリットとして、海上を迂回するルートと比べて、距離12km、日数で半日~1日早かったことが挙げられます。
また輸送コストも延寶八年(1680)の法令によれば、銀二匁の運上を控除しても、なお銀三匁も安かったようです。
備前領内の運輸系統をみてきましたが、領外への運輸(回漕)系統について、今回は特に江戸への回漕について簡単にご説明しましょう。
この江戸への回漕は、岡山では「大廻り」と言われ、専ら江戸藩邸で消費される倉米が主な荷となっていました。
ちなみに寛文八年(1668)には、江戸藩邸へ5,255俵を廻米していました。
この回漕については、当初、民間の船に積載し、藩から立会人を1名乗船させていましたが、不思議なことに江戸に船が到着した際に、缺米(なんとお米が大量に無くなっていた!)が起きたことから、試みとして寛文八年に藩の船を使い、船頭・水夫にいたるまで舟手(藩士)から選んだものの、却って輸送コストがかかったため、翌寛文九年(1669)に従来どおり、民間の船によるものとなりました。
このときに江戸に到着した時点で缺米があった場合、岡山に戻った後、江戸の米相場をもとに銀で弁償していました。
この江戸の米相場を銀で弁償したのにも、前々から故意に大量の缺米を出し、その缺米を
江戸で高値で売却し、缺米分の弁償は岡山で安い米をあてることにより、不当な利益を得ることが往々としてあったからといわれます。
また、この不正を防ぐために、「箱入米」というものが考え出され、上積・中積・下積みの3個に分け、他の俵に入れられた米とともに船に積み、江戸に到着の際に、箱入米の自然減(乾燥によるものか?)、俵米の減量を比較して、船の中で行われたであろう不正を見つけようとしたこともあったようです。
しかし、敵もさる者、火を使って(炙った?)箱入米の量を減らしたりしたため、却って俵米より大量の缺米が見られたため、延寶二年(1662)年には廃止の憂き目にあっています。
なお延寶四年(1664)年の江戸廻米は、大坂の鴻池喜右衛門の肝煎りの船で行うと通達が出ていますが、その後、紆余曲折があったようで享保八年(1723)に出された「御國船諸事念入乗廻し等も宜敷由」の通達をもって、江戸への廻米はすべて岡山の民間船に委託されています。
このお米を巡るお話は、歴史的に取上げられることの多くが、五公五民、六公四民など年貢の比率となります。
経済の根幹は、お米でしたから当然のことといえるのかもしれません。
とは言え、輸送の段階で不正が行われていたことも、また大きな問題でしょうか。
これらの記録には、誰が不正な利益を得ていたのか、記載がありませんので、今となっては知るすべもありませんが、当然このようなことはあってはならないことですよね。