岡山は、名君といわれた池田光政の時代を中心に熊沢蕃山と津田永忠という叡智を持った家臣により、教育的、経済的にも大きな発展を遂げました。蕃山は人傑、永忠は忠貞の士とも呼ばれ、共に光政の信頼を受け、全身全霊を以って藩を経綸するの道を得、赤誠を披瀝して、藩の政務にあたったことは、まさに熊沢蕃山、津田永忠ともに岡山発展の偉人と言えるでしょう。
とはいえ熊沢蕃山と津田永忠の考え方には、根本的に大きな隔たりがあったことも、また事実でしょうか。
今回は、熊沢蕃山の、生い立ちとか、「近江聖人」 と、その徳望が慕われた儒学者・中江藤樹の門下に入ったことについては、この場では割愛し、岡山藩における蕃山を中心に見てみることとしましょう。
 
《熊澤蕃山に関する史料》※池田光政公傳より
 蕃山は人傑なり 荻生徂徠の如きは、天下を睥睨して眼中殆んど人なし、然れども熊澤氏の人物に至りては深く敬服せるが如し、其言に云く「人才即熊澤、學問即仁齋、餘子碌々未レ足レ數也」と又云く「伊藤仁齋道徳、熊澤了介英才、與ニ余之學術一合而爲レ一、即可レ謂二聖人一矣」と。即ち知るべし徂徠の眼中にありては、蕃山と仁齋と彼自身と自ら鼎足の状勢を成せるを。永富獨嘯菴亦曰く、「偃武以来、豪傑之士四人山鹿素行、熊澤了介、伊藤仁齋、荻生徂徠」と。服部南郭亦曰く、「予讀二熊澤了介經齋説一足蹈二其地、口論二其政一、事々確説不レ似二他人空言一矣」と。其他太宰春臺の如き、湯浅常山の如き、藤田幽谷の如き、皆蕃山の人材を稱揚せり。蕃山の不世出の人傑たりしは當時に於ける碩儒の認定せるによりても亦想見するに足るものなり。特に太宰春臺か湯浅常山に復する書に「夫烈公者不世出之英主、得二熊澤子一而任以二國政一明良之遇、實千載之一時也」と云へり、君臣際會想ひ見るべし。但し蕃山に就いては或は毀譽半はするものあり、而して其の養嗣池田丹波守に與へたる書簡十通収めて息遊軒書翰二冊に在り。皆其の真蹟なり、其の至情懇疑を極む。憾むらくは其長文尨大の故を以て之を本書に収載する能はさりしことを。 

 この書では、熊沢蕃山を、「人傑」つまり、才知・実行力などに秀でた人物として捉え、荻生徂徠については、あまり良い評価をしていません。
とはいえ徂徠自身が、蕃山、そして朱子学を批判し、古義学を説いた伊藤仁斎と鼎峙(ていじ)する存在であったと考えていたようです。
また山脇東洋の門下の医師であった永富独嘯庵は、元和偃武つまり元和元年(1615)に大坂夏の陣で豊臣家が滅び、世の中が太平になって以降、豪傑の士として、山鹿素行、熊澤了介、伊藤仁齋、荻生徂徠の4人の名前を挙げています。
何れにせよ蕃山が、不世出の人格者であったことは間違いないことでしょう。

 さて光政の日記から熊沢蕃山が、重用されたことがうかがえる記述をご紹介します。

正保四年(1647)二月十四日
 二郎八に申聞候ハ在□ニ召遣可申 外様ニ可置者ニ無之候 先年家退候へとも我等存候ハ他所へ可罷出者と不存一度ハ歸度ハ歸参可仕者と存候 其所ちかい無之歸参仕候上は近年他所ニい申候而ハ家にい申候同前ニ我等存候間他ヲはゞからず延慮なしニ奉公仕候通申聞 三百石折紙遣候事。
□・・・引用著作も不明のためか□で表記

一旦、岡山藩を離れ、中江藤樹の門下に入り、陽明学を学んだ蕃山は、正保四年(1647)に、光政に知行300石取りで、再度仕えることとなります。
 
 慶安三年五月廿日 備前へ申遣覺
一、二郎八に三千石 組鐵砲申付候 花畠之内ニて さくまい仕候様にと申付候間可被得其意事

 この再出仕の後、わずか3年で、300石から、一挙3,000石の鉄砲組番頭(上士)に抜擢されたことは、陽明学と朱子学との中間的な立場と評価された「心学」の講義が、池田光政に取り入れられることもありますが、いかに蕃山が光政に重用されたかを物語っています。
この後、津田永忠とともに光政の補佐役として藩政確立に取り組んでゆくこととなりますが、特に蕃山が起草したと伝えられる「花園会約」は、後年、寛文十年(1670)に日本初の庶民を対象とした学校として開設された「閑谷学校」の礎となったことは有名です。
とはいえ熊沢蕃山の行った政策に対する藩内保守派の反発は大きく、対立をもたらすこととなります。
この蕃山が、岡山を去ることとなったことについて、史料から引用することとしましょう。

《熊澤蕃山罪を獲る事 附野中主計が事》
 熊澤二郎八、後蕃山了介、中江藤樹先生の門より出て、備前少将光政に崇敬せられ、其頃は子思孟子の如くにもてはやし、賢者と沙汰せし人なり、集義和書内外書を撰み、真學を立、一朝に名を顕はし、備前一國を儒風になびけしと也、光政述職の供して何れも江戸に往来しける、或年歸國するとて、板倉周防守重宗、其頃在江戸成けれは、暇乞として参りけれは重宗申されけるは、其方事江戸にて今賢人と稱する由承れは申す也、最早重ねて江戸へ参らるゝことは無用なり、此事新太郎殿に逢たらば、此以後同道あらん事は無益なりと存寄を申へしと思ひし所なりと申されし由、熊澤が門人共、此事を承り傳へて評しけるは、板倉氏は町人の公事沙汰こそは得手なるべし、聖賢の道は何とて知玉ふへきや迚(とても)、大きに誹謗しける、然るに重宗の詞の如く、其後江戸に来りしより、奢り日々に長し、池田家にても熊澤を悪む者出来し、且、國風も古風を變じ、先規に違ひし事多し、光政の身の上如何と云人も有し程に、病気と稱し京都に退隱しけり。

 この史料では、熊澤二郎八、後の蕃山了介について、下総関宿藩初代藩主・京都所司代であった板倉周防守重宗の言葉に、蕃山が江戸で自ら賢人と称していることから、光政に同行して江戸に来ることは無益だとあります。この言葉に、蕃山の門人たちは、板倉周防守は町民の裁判沙汰は得意だが、聖賢の道については知らないと、大いに批判します。
とはいえ蕃山が、江戸に来てから、奢り高ぶったことは、重宗の言葉からも推測出来ますし、藩内でも、その大胆な藩政改革を批判する者も現われ、ましてや国風が守旧に変わり、改革自体、古の規則から逸脱することも多かったことから、光政の進退について話題とする人もあり、結局、病気と称して、岡山を離れ、京都に引退することとなります。
また、光政の進退に関連することとして、岡山県教育史から引用しましょう。

 林道春が幕府一天張りにして、家康を神祖の神君のと称し、畏くも太神宮を以て呉の太伯とかいふの僻見に対し、熊沢が抗したるを以て、幕府は勿論、林家は熊沢を邪説異学となし。熊沢初め池田光政に挙用せられ、慶安三年(1650)主君に従て江戸に至るや、門を叩き教えを乞ふもの三千余人に上りしといふ。其の説く所異学といふに帰し、光政も之を斥くるに至る、蓋し幕府の内旨なるべし。(徳川時代史)

 この熊沢蕃山の引退については、岡山藩内のみに留まらず、その影響の大きさから、幕府の意向によるものだったのでしょう。

《参照》
・池田光政公伝. 上巻/石坂善次郎 編/石坂善次郎/昭和7(1932)
・池田光政公伝. 下巻/石坂善次郎 編/石坂善次郎/昭和7(1932)
・岡山県教育史/岡山県教育会 編/岡山県教育会/昭13(1938)