岡山藩は、池田忠雄の時代に、表向きの石高315,200石が確定しますが、備前一国に加えて備中の一部を含む領地には、岡山の三大河川がもたらす土砂が堆積した肥沃な平野のため、膨大な開墾の余地を残していました。

さて時は、池田光政の世に遡ります。
寛永十五年(1638)12月25日に光政は、
「備前國中ヲ巡視シ墾闢スヘキノ地ヲ見立申出ヘキ旨郡奉行中ヘ命アリ」と自記に残しています。つまり岡山藩における新田開拓は、地勢により有利であったことから、光政が大規模な開墾を行うこととなりますが、光政の時代を中心として前後70年に4,000町歩(39.66944平方キロメートル)あまりの新田を得たとされます。
とはいうものの光政に登用された熊沢蕃山は、もともと開墾という積極政策に反対の立場であり、従来の耕作地で集約的な農法を行うことにより、生産増を見込むことを主張していました。また洪水の際の危険を重大視し、周辺状況等を考慮しないまま開墾を行うことにより、従来の耕作地に悪影響を及ぼすことに猛反対の立場でした。
このことについて、熊沢蕃山の「集義外書」の記述からご紹介しましょう。
(途中省略)
それ山林は國の本なり、春雨五月雨は天地気化の雨に候、六七月の間には気化の雨はまれにして夕立を以て田畠を養へり、夕立は山川の神気おとろへて、雲雨をこすべきちからすらなし、しかのみならず木草しげき山は土砂を川中におとさず、大雨ふれども木草に水をふくみて、十日も二十日も自然に川に出る故に、かたかたもつて洪水の憂なし、山に草木なければ土砂川中入て川とこ、高くなり候、大雨をたくはふべき草木なきゆへに、一度に河に落入、しかも川とこ高ければ洪水の憂あり、山川の神気うすく、山澤気を通じて水を生ずる事少ければ、平生は田地の用水すくなく、舟をかよはすことも自由ならず、これ皆山澤の地理に通じ、神明の理を知人なき故なり、國に忠あらん人は鹽濱と焼物を減ずとも増べからず、其上古人も山をつくすものは子孫おとろふと申傳候
一 来書略、新田をおこすは人を養ふの第一にて可然事と存候、いかゞ
(途中省略)
また、この発令により郡奉行が上申した開墾候補地の中には、旧耕作地に障害となるものも多かったようで、熊沢蕃山の反対意見を考慮し、明暦二年(1657)12月の発令には、 「古地ノ障ニ不成新田随分見立可申旨發令。」(法例集)とありますから、土地の精査が充分に行われないまま報告されたものが多かったことを物語っています。
この数百にのぼる開墾予定地の中から、開墾が容易く、費用対効果が高いものを選択した結果、上道郡中川村前(現在の岡山市東区益野)、邑久郡(現在の瀬戸内市)が決定となります。
この翌年の明暦三年(1658)8月8日にいたり、やっと普請奉行・小堀彦右衛門らが新田の見分役として現地に派遣され、設計図面の作成・用水の状況を見積もり・調査することとなります。
なお、この命令の数日前の8月2日には、「高島前金岡迄ノ新田目論見ノ爲熊谷源太兵衛・・・・ニ見分スヘキ旨被命。」とありますが、前述の2地とは違い、あくまで見分のみとされていることから、実際に岡山藩による開墾政策が確立し、その実現に向けて動き出したのは、上道郡中川村前、邑久郡の新田開発となります。
ただ、この後、岡山藩の財政が悪化したこともあり、藩自ら開墾を行うことが出来なくなります。
ところで、岡山藩が、開墾を行おうとした目的はどこにあったのか、考えてみたいと思います。
やはり第一に考えられるのは、いわゆる中央集権的な封建制度の下、農民による年貢(米)が経済の根幹を占めていたことにより、耕作地の増加による増産つまり年貢の増収によって、藩経済の救済を考えたことでしょう。
ましてや、当時の岡山藩には、製塩などの冥加金などもあったものの、農業経済には遥かに及ばなかったと思われます。
もちろん耕作地の増加による穀物等の増産は、洪水・旱魃などの天災に起因する飢饉に対処するものであったことは否めません。
さて藩経済の窮乏を救うため、寛文十一年に津田永忠によって始められた岡山藩独自の「社倉米」についてご説明しましょう。
この津田永忠は、池田光政の股肱の臣とされ、信頼度も高かったと言われますが、今回は新田開墾を中心とし、その他の業績については、別の機会にご紹介します。

寛文十一年辛亥十月社倉法を創設す。
光政其の長女本田忠平の夫人に付せし湯沐料銀一千貫目を私蓄し毎年五拾貫目を送付するを定額とす。津田永忠建議し之を借て米若干に替へ朱子社倉法に擬し毎春息を薄うして村民に分貸し年末に至りて其の母子を収め増殖して凶荒の扶助に備へんとす。光政可とし之を施行せしむ。又畝麥収に及んで之を収めしむ。(以下省略)

この建議書からうかがえることは、岡山藩の社倉自体、飢饉等に備えるための備蓄倉庫的な意味で設けられたのではなく、「毎春息を薄うして村民に分貸し年末に至りて其の母子を収め増殖して凶荒の扶助に備へんとす」にあるように、農民に低利で社倉米を貸し、年末に元利ともに徴収することで、農民を高利の負債から解き放ち、更には飢饉等の備えとするものでした。
この社倉法は、「数年の後元利を還し尚息米二万石を剰す、後年各地を開墾する大抵その経費をこの貯蓄に収り、多額の餘贏を生するに至る、會て封内の民をして毎畝麥二升を出さしめ、以てこれを藩庫に貯へ、窮民缺乏を告くる時これを貸輿し、麥熟するに及んてこれを納む、名つけて畝麥の法といふ、中途廢絶す、こゝに至て再興し、民大いにこれを便とす、延寶三年、年穀登らす民大に餓う、因つて社倉を開き賑恤す、その人員八万五千七十八人にして、賑恤米一万八千三百九十六苞及ひ麥一万二千四百三十五苞に及ふ」
(以下省略)

とあるように、2万石とかなりの利益をあげ、この後の倉田・沖・幸島等の新田開発の費用にあてられました。

沖新田開発の真意とする津田永忠の書をご紹介しましょう。

一.名を好候ヘハ沖新田之儀ハ取立不申候 倉田新田 幸島新田ニて 私名ノ為ニハ能御座候 首尾可仕も慥ニハ不被存 二ツ物かけ成 沖新田ハ取立不申候 五穀ノ出来不申候處ヲ 人力ヲ以五穀出来仕日本ノ食物増候様ニ被 仰付ハ天道又ハ天下ヘノ御奉行と奉存候 又は沖新田御普請又ハ此後沖新田ニたより渡世仕ル者幾人と申事御座有ましくと奉存候 天道之意味ハかやうノ事と承傳候

天道つまり天地自然の法則について、永忠の解釈を書き綴ったものと思われますが、永忠による積極的な経済政策は、藩の財政の建て直し、財力の蓄積に努めるものであり、藩独自ではなく、町民に対して、たとえ小さな場所であっても開墾するようにと奨励しています。

さて岡山藩における開墾の目的は別の面にもあったようです。
池田光政の時代、寺院の廃止、神社の合祀などを行ったために、失業する人も多く、開墾により新たな耕作地が生まれても、人口が少なかった当時、これらの人々を移住させ、耕耕作をさせ始めました。
また津田永忠の沖新田の開墾に当たって、元禄四年(1691)年に職の無い人に新たな新田で耕作するようにとの発令が行われています。この授産目的も岡山藩における開墾政策の目的だったのでしょう。

来年新田被仰付候に付村々にて田地少く家内の多きにつき渡世難成百姓共へ右新田の内遣し渡世仕候様に可被仰付候、左様の者共の家内にて男女に不限奉公人に可成分は奉公人に出させ其外片付可成分は念入致吟味残る人數に應じ田畠少く渡世難成と相見候百姓の分遂吟味書出可申候

ただ、この津田永忠時代の開墾事業が、最盛期であったことは、津田永忠以降、目立った開墾が行われていないことからもうかがわれますが、永忠のような有能な人物が存在しなかったことに加えて、新たに有望と思われる候補地が無かった、また岡山藩を取り巻く経済状況からして困難だったのかもしれません。
《参照》
・池田光政公伝. 上巻/石坂善次郎 編/石坂善次郎/昭和7(1932)
・池田光政公伝. 下巻/石坂善次郎 編/石坂善次郎/昭和7(1932)
・経済史論考/黒正巌 著/岩波書店/1924
・日本経済叢書.  巻33/滝本誠一 編/日本経済叢書刊行会/大正4-6
・岡山県人物伝/岡山県 編/岡山県/明44.2