岡山藩における教育については、その教育方針について、封建社会の世であったため、武士階級と庶民階級では、その教育方針が異なっていたことは明らかでしょう。

では今回は庶民を対象にした教育方針から見てみることにしましょう。
江戸時代の庶民教育といえば、まず頭に浮かぶのは「寺子屋」ですよね。
呼んで字の如く「寺」が関係したことは明らかですが、鎌倉・室町時代に遡り、寺院教育とするものと、江戸時代における寺院教育とするもののと両論があるといわれます。
もともと寺院教育自体、僧侶にとって必要な学問を授けるものでありましたが、漸次、その範囲を拡大し、鎌倉~室町時代には、僧侶だけではなく、庶民の教育機関となっていました。
この後、江戸時代になると、今と同様に通学する教育機関としての寺子屋が設立されることとなり、特に江戸中期以降に著しい発展を遂げることとなります。

まず、室町時代に書かれた「世鏡抄」から引用することとしましょう。

仮例貧卑孤独の人の子也とも少も志を不レ捨、福貴有力旦那の子よりも忝く思ひて万事を教へよ、教に不レ随共、三度迄は教レ之、高官権門の子息ならば、殊更瞋て打擲して教へよ、我に不孝ならば、速に二親に理て出家に可(レ)成者をば出家に可レ成、在家に可(レ)成人には、在家の能を終夜不レ眠案じて、明なば急ぎ教(レ)之、侍をば下山の後迄も七度の忠勤一度の昇段在て、修羅三悪の苦患を離れて成仏せよと、朝夕勤行の次に、呪を満て読経可(二)祈念(一)也。出家に可(レ)成人ならば、可行座禅案心観念を能々して、方丈、長老、阿闍梨、律子、僧正、得業、東堂、西堂にもなれと昼夜不断の勤行の次に可(二)祈念(一)也。
(以下省略)

この書には、貧卑・孤独の人であっても、志を捨てることなく、むしろ裕福・権力者の子弟よりも、しっかりと教えなさい。特に裕福・権力者の子弟の悪事は三度までは、打擲して、教え諭し、それでも利かないようであれば、父母の許に送り返しなさいと、庶民の子弟に対して、ある意味、寛容であったと考えられます。

また、江戸時代中期の儒学者・中井竹山の著「草芽危言」には、寺子屋の呼称について、このように書いています。

寺へ行くと云ふは読み書の事になりたり。今は在郷にも相応に算筆に通じたる者を引きよせ置き子弟を教へ、或は村方年分公私の書き物、金穀の勘定などさする様になりたれば、今は寺院にかゝる事は無きも、やはり寺子屋、寺子、寺入と唱ふ。

この教育機関である寺子屋も、江戸時代に入り、武士に対する教育機関としては、藩校、私塾で行われるようになります。しかし庶民教育機関としての寺子屋は、農村においては相変わらず、寺院で行われ、都市部では、時代劇でお馴染みの浪人による私宅を使ったものが多くなりました。
ちなみに、寺子屋という呼び名も、関西中心であり、関東では、「手跡指南」「幼童学問所」などとされたようです。
さて庶民の教育は、私的な塾である寺子屋で行われ、積極的に藩が介在したのは、甚だ少なかったといわれます。
その世の中で、備前岡山藩が、庶民教育を推進したのには、大きな訳がありました。

以前ご紹介した「光政と社寺廃合」通り、池田光政の時代、必ずしも心学(陽明学)という儒教の教えに基づいて、仏教を排除したのではなく、徳川家康の「神儒佛共に御用ひ被候」の考えの下、神道・儒教・仏教の3つともに用いることにありましたが、この仏教の排除により、廃寺が数多かったために、僧侶の仏教帰依が困難になったことからかも知れません。
そして光政が行ったのは、寛文七年(1667)に領内の各郡に手習所を設置し、農村の子弟に、読み書きを学ばせることでした。
この手習所という今でいう初等教育の場、つまり小学校と言い換えることが出来るのでしょうか、教育行政の立場から見ると甚だ不平等であったことは否めません。
当時の学校奉行・津田重三郎の和気郡奉行への通達に、その一辺を見いだすことができます。

手習所へ出候子供は、肝煎庄屋の子供並に村々庄屋、年寄、又百姓にても手前宜、下人も召仕、世倅一人手習所へ爲逍候分は、差て、事欠き不申者の子供を、月十五日手習爲詰申度。右の者共は年長候得ば、皆公用を勤る者共にて御座候。
左候へば、物書算用不仕候て不叶儀に御座候間、此旨被二仰聞一望不申候共手習所へ仰出し可燃存候。尤年寄百姓の内、小身にて子供手習所に出し、勝手迷惑仕る者は、無用仕度候。小百姓の内にても、手習へ出度と、望候者は、望次第に仕度存候事

つまり農村でも、肝煎庄屋・庄屋など、村で重要な地位にいる者の子弟を対象としたものであり、そのほか、一般の農民にしても、子どもを通学させても、その生活に支障がないものに限っていることから、今の義務教育とは根本的に異なるものと考えられます。
また封建の世では、一般の農民は、文字の読み書きが出来なくても、支配階級からの指示に従っていれば良いというものであったため、対象を原則限ったのも、「右の者共は年長候得ば、皆公用を勤る者共」から推測できるように、村役人として将来、一般の農民に対して、行政的な役割を担うことにあったからでしょう。

前回、ご紹介した「花園会約」のように、武士に対して、その人格を認めた上で、自覚を促しているのに対し、農民など庶民の子弟については、人格さえ認めず、あくまで封建的な支配のためにのみ教育を利用したとさえ思われます。
そして領内各地に設けられた手習所も、財政難の影響でしょうか、延宝三年(1676)には、その全て14箇所を、今も残る閑谷学校に集約されることとなります。

とはいえ、文教を以って国を治めることに励んだ池田光政と、その指示の下、庶民教育にも尽力した泉忠愛、津田永忠の功績は、岡山の誇りと思います。

《参照》
・岡山県教育史. 上巻/岡山県教育会 編/岡山県教育会/昭13
・公民教育研究. 上巻 (明治以前に於ける自治制度と公民的教育)/東京市政調査会 編/東京市政調査会/昭和3