以前、教育藩・岡山についてご紹介しましたが、今回は、私的な学校「花畠教場」について見てみることにしましょう。
池田光政による藩士という支配階級のみならず、庶民教育まで目を向けた学問重視の施策は、身分制度が厳重に行われた封建の世にあって、本当に進んだものだったと思います。
さて昭和初期に書かれた資料では、寛永十八年(1641)に旧・岡山藩主・池田忠雄の花畠別業を仮教場とし、専ら聖学をもって藩士の子弟を教育する傍ら武技を演習させたことが、岡山藩校の前身であり、実に江戸時代、全国における藩学の先鞭であるとともに、最も有名なものと記してあります。
とはいうものの最近の研究では、花畠教場が岡山藩の公式な学校ではなく、熊沢蕃山などを中心とした私的な学校であったといわれています。
熊沢蕃山(伯継)が、池田光政に仕えたのは、寛永十一年(1634)のことであり、いったん致仕して中江藤樹の江西学院に学び、再び光政に仕えたのは正保四年(1647)であったといわれますから、花畠教場が開設されて5年間、熊沢蕃山は教えていなかったと思われます。
ちなみに正保四年(1647)から明暦三年(1657)の11年間は、蕃山を始め、心学・陽明学派でしたが、蕃山が岡山を去った万治元年(1658)以降の教授陣は、三宅可三、市浦春雨、林文内、富田玄真など何れも朱子学派となりました.
蕃山の学問は、陽明学と朱子学との中間的な立場と評価されるものであり、当時、「心学」と呼ばれていました。
この「心学」の講義が、池田光政に取り入れられることにより、慶安三年(1650)には、3,000石の物頭に抜擢されます。
また蕃山の学問は、武士としての修養と、政(まつりごと)の担い手としての実践を重視するものであり、光政は蕃山の学問を学んだ藩士などに領民を直接指導させることとなります。
その後、蕃山と他の心学者との間で意見の対立が深まったことに加えて、明暦三年(1657)年に蕃山が隠退したことにより、「花園会」も解体されることとなります。
この花畠教場の規則とされたものが「花園会約」とされていますので、「花園会」と呼ばれたと推測されます。では実際にどのようなものだったのでしょうか。
当時、教場に掲げられていた「花園会約」を読むことにしましょう。

一、古人の善を為す日を不足するものは何事ぞや。良知の人心にある其職に居て其職に任ぜざるは皆不快故也。此に我輩弓馬の家に生まれて武士の名を得る人なれば武士の徳に眜く武士の業を勤めざるは自良知に耻る所なり。夫武士は民を育む守護なれば守護の徳なくしては不可叶。其徳の心にあるを仁義と云、天下の事業にあらはるゝを文武といふ。故に明にして慈愛あるは文徳也。明にして勇強なるは武徳也。良知明なれば此徳素より我に備れり、是故に今諸子の会約致良知を以宗とす。まことに得がたき此生を得、難聞聖教を聞、難遇同志数輩あつまれり、三難の時いかで黙止すべきや、三難の福を得に當つて徒に悠々として飽煖を安じ此生を空せば天威明也。其罪豈一生のみならんや、可恐可戒の甚だしきもの也。夫れ文武に徳有芸有、徳は猶苗の生育の如く芸は猶耕転の如し、文武を以て耕転の事として心の生理を生長養育し教学相長じ、偕に聖果を結ばん事何の幸か如之哉。
一、毎日清旦に盥櫛し衣服を整て聖経賢伝を熟読すべし、文才拙きものは或は孝経四書の経文を読、或は先学著述の仮名書を読み、触発、栽培、印証の三益を求て心を冊子上に放在する事なかれ。
一、食後には射を学ぶべし、時過て後鎗太刀等を習ふべし。馬鉄砲は人により時によりて難習ものなれば勢に任せて可也、武芸は治平の具、戈を止むの儀なれば相和し相輔けて敢て争心殺気を挟むことなかれ。
一、書数は文武の芸術に於て其不便少からず、時を以て是を習ふべし。
一、礼楽は六芸の尤も重き物也。礼は心の敬を顕し、楽は心の和をのべたり、礼楽を学ばんと欲する人は先此心を存養すべし。たとへ礼楽を学ぶ事不能人も若敬和の徳あらば事毎に無体の礼を行ひ日々に無声の楽を皷せむ。故に君子は礼楽其身をはなれず。
一、礼用軍用欠べからず、困窮を恤み下民を救ふこと分限に応じて可有之。家居飲食衣服器物妻子の私用にをいては倹約を専とすべし、若こゝろに於て倹約ならずんば或は礼用を缺ぐ人か、或は軍用を廃する人か、或は慈悲の利済のこゝろなき人になるべし。世俗其恥あらざるを恥て恥心亡能く顧省して迷を弁ふべし。
一、朋友の交じり人我敬譲有て相和睦し温恭自慮にして益を得るを本とす、威儀恣に恣して言語卑く争心浮気を以て交は下流の凡俗也。他人の是非世間のあだごとは敢て口に置事なく恭敬の誠を尽すべし。色欲の雑談堅く禁之、況や淫行をや、風は必心に由て見はれ、言は心の声なれば其恥を知べし。
一、朋友の交り一礼の心を存し、其困窮を相救其業を相助て物我の私意に蔽れ便利にひかるゝ事なかれ。若物我の意念発する時は一礼の良知を眛し同胞の親愛を亡す魔障也とふかく提撕警覚すべし。
一、朋友の交り過を規し善を勧むるを以て真実の親とす。あやまちを見て規す事なく善を知て不勧は、同志相切磋するの本音にあらず。徒に其非を咎め其是を争ふも同志切磋するの始願にあらず。之を規するに和を以てし之を勧むるに時を以てし、みだりに論弁をなさゞれ、議論稍不叶事あらば心を虚にして自反せよ。夫良知の愛敬は万物を以一体とす。我手足の破らるゝ時は是を治る心必平癒に至らざれば不止、人の心病を療するも忠告して善導くの意案をめぐらすべし。過を聞く人も良薬口に苦きを不厭して病に利ある事を楽むべし。過を規す人に向ふて蓋蔵して外に慎むは、たとへば病者の医師にあふて其病症をかくすがごとし、心事光明にして内外なく自心に恥じて念上に格去すべし。

この「花園会約」は、熊沢蕃山が起草したと伝えられていますが、毎朝儒学の経典を読むこと、食後には武芸の鍛錬を行うことと述べた上で、「朋友の交わり」とした項目では、「相手の過ちを規(ただ)し、善行を勧めること、相手の過ちを見て規すことなく、また善行を知って勧めないことは、お互いに切磋琢磨することにならない」など、細かく定められています。

また、あわせて光政の自書による「学問咄之弁」を掲げてあったといいます。
この光政の学問に対する考えについて推察することが出来るでしょう。

昔智ある人のいへるは世間無学の人をみるに善人の集りて正き道の物語得去かたくてきゝぬれば眉をひそめて打睡りあくひしのひし無興顔あまりに物をいはされば文盲とや見えなんと自是をおもひとり我行跡之不善をばおほひかくして善言を巧みていへど其言かたことのみ多くて其肺肝を君子には見られん事を口惜き老たる人の云へるには我等は年も過ぬれば学文すべきよはひなし若き時にはうかうかと月日をたちし悔しやと先非を悔は子孫には書をも読せて眼をは少明たき事なれと実の心をおもはねば其座を去て其後は心に留る気色なし若士の云けるは我等は生得愚鈍にて物を読てもみたれども其まゝ跡より打忘れ理のおもしろき物語当座覚るやうなれと一日二日過ぬれば聊覚侍らすといへる族も多かりし吾又おろかながら此心根を察するに力の不足にはあらず学文嫌とはいはずしてとかくに言を巧にして偽れる心行也中に誠あれば外にあらはるゝものなりと慮りて自今以後其耻をはづかしきことにして幼学の輩能々躰認したまへ賢を見てひとしからざる事をおもひ常に智のすぐれたる人をうらやむ心あるならば此語を覚て心を警め給へ

ところで、岡山を去った熊沢蕃山はどうなったのでしょうか。

幕府により、蕃山の思想は、異学とされたものの、岡山を離れ、京都に入った蕃山には、その教えを請う公家を始め多くの人が集まり、江戸でも同様となりました。
このことは、蕃山の書簡の中に、「松平伊豆守、板倉周防守殿、天下にかくれなき威勢を御持候人にては候へ共、いつにても拙者へ殿なくてはかたなにも御よびなく候。」「芝の対馬守様へ路頭にて一両度行あひ、下馬候へば、則遠くよりのり物おろし御出にて、助右衛門殿(伯継)こなたへとて、御いんぎんなる御事にて候ひき」と書かれていることからも、蕃山が当時の権力者に畏敬の念をもって迎えられていたと思われます。
この備前岡山を去って後、熊沢蕃山は、貞享四年(1687)に、時の五代将軍・綱吉に対して、その著「大学或問」で、幕府を批判する時務を進言したことにより、その怒りを買い、下総古河(茨城県)に禁錮の身となってしまいます。
「大学或問」について、どの部分が、実際に綱吉の逆鱗に触れたのかは、別として、所載の「時務之目録」をご紹介して終わりとします。

一、人君天職之事
二、人臣天職之事
三、拝昌言事
四、富有大業之事
五、諸国水損のうれへなく、日損すくなかるべき事
六、北秋の備、其外不意のたくはへ、凶年のすくひも富有大業の一事なる事
七、公儀の御蔵に金銀米穀充満し、国主城主共に五穀無置所やうに澤山に可成事、(附)五穀如水火にして、不仁者なく盗賊なかるべき事
八、世間借金かし主迷惑せず、残らず相済、天下無借銀になるべき事
九、諸浪人不残在付、遊民並産なきものかたづき困窮人尽くすくはるべき事
一〇、諸国山林茂り川深く可成事、(附)民困窮故山林荒る事
一一、上の御冥加損益之事
十二、農兵の昔にかへるべき事
一三、地なし高をやめ、並新知加増に仁政ある事
一四、異国の絲巻物地能く下直に可成事、(附)十年、十五年の間には本邦に絲綿多くなり、よき絹可出来事
一五、吉利支丹之法断絶之事
一六、仏法再興之事
一七、神道再興之事
一八、賢君仁政中興之事
一九、学校之政之事
二〇、学校の師となすべき人之事
二一、小恵ながら益あるべき事
二二、諸国米穀捨たり候事

《参照》
・日本経済叢書/滝本誠一 編/日本経済叢書刊行会/大正3-4