岡山城は、元亀元年(1570)宇喜多直家が、沼城において岡山城主・金光宗高を自害させ、接収後、その子・秀家により、城の大改修と城下町の建設が行われ、関ヶ原の戦いの僅か3年前の慶長二年(1597)に、天守閣が竣工することにより、城郭・城下町の形がほぼ出来上がることとなります。全国の城の多くが、慶長五年(1600)年の関ヶ原の戦い以降に築かれていることからも、広島城と並び、近世城郭の魁とされています。
この後、小早川秀秋による外堀(二十日堀)※1を設け、堀の外側に沿って蓮昌寺を始めとした寺院を(有事の際の防御ラインとして集めたといわれる)、さらに池田忠雄による本丸の改築等が行われることにより、岡山城と城下町がほぼ完成の形となります。

さて、岡山城は、岡山の起源となった岡山※2、そして石山※3、天神山※4の3つの丘陵を中心として周囲の岡山平野に城郭を配置した平山城です。
特徴として岡山に置かれた城の中心となる本丸の西方向のみに西の丸や二の丸などの郭が配置された梯郭(ていかく)式の縄張りとなっています。
そして本丸の北~東側には、城の中枢部分である本丸の防御ラインとなる郭が一切存在しないことから、防御機能が全く無いに等しい構造となっています。このウイークポイントを解消するために、宇喜多秀家が行ったのは、河川の流域の変更でした。岡山城誌から引用することにしましょう。

 「宇喜多氏ノ諸老臣相謀ッテ曰本城ヲ東ニ改造セバ東ノ山ニ近フシテ有事ノ日防戦ニ不利ナリ然レドモ一且太閤ノ指揮ヲ受ケタレバ背クベカラズ幸ニ水城ニ近クシテ洪水ノ時ニ方ッテ城中ニ泛濫スルノ恵アレバ之ヲ口ニ藉キ本城ノ地ヲ築上ゲ壘壁ヲ高クセンニハ如カズト又之ヲ太閤ニ稟ス太閤是ヲ容サル因ッテ家臣角南隼人ナル者ニ縄張ヲ命シ且ツ新ニ川筋ヲ鑿チ其堀リ揚タル土及堭土等ヲ積テ地ヲ築上ケ城壘ヲ崇クセシト云フ(八田彌惣右衛門岡山私考に據ル)此流從来城北中島、竹田二村ノ間ヨリ巽位ニ漑キ河原、濱二村ノ東ヲ繞リ瓶井山麓ニ達シ又廻リテ坤位ニ漑キ岡山ノ東ニ至リ迂囘シテ南流セシヲ茲ニ至リテ西ニ轉シ竹田村ヨリ南ニ疎シテ城郭ノ東ヲ繞ッテ南流セシメ一橋ヲ架シテ川ノ東ヨリ城下ヘ道路ヲ通ス・・・(以下省略)」

この書からも、宇喜多家では、岡山城本丸の東方向の防御を固めなければ、有事の際、防戦に甚だ不利ではあるものの、一旦、太閤秀吉の指示のもと築城したものであるものの、今の城が水面に近く洪水の時に城内が冠水する恐れがあったために、秀吉に土台の嵩上げの許可を得ることとなります。さらに旭川の従来の流路を大きく変え、城本丸の防御を補完するために、本丸に沿って蛇行させ、天然の堀としています。
また一説ですが、御後園(明治四年に「後楽園」と改称)が、本丸の北・東方向を守るかのように作庭されているため、本丸を防御する郭の役割を持っていたといわれます。
これら防御ラインとしての堀は、明治八年(1875)以降、外堀から、中堀・内堀と順次、埋め立てが進み、現存する堀は、内堀の一部のみとなっています。
そして昭和二十年(1945)、太平洋戦争によるアメリカ空軍の空襲により、天守閣、石山門などを焼失しましたが、昭和四十一年(1966)に、天守閣、不明門、廊下門、六十一雁木上門が再建され、今、私たちが見る姿となっています。
 
では、岡山城のもともとの大きさについて、岡山城誌から考察してみることにしましょう。
岡山城の曲輪(くるわ)※5構造は、本丸・二の丸内屋敷・二の丸・三の曲輪・三の曲輪の内・三の外曲輪の内となり、外堀(二十日掘)と旭川に挟まれた広大なものでした。

 外堀には、北から伊勢宮口門※6(現:新鶴見橋西詰付近)、山崎町門(現:北区野田屋町一・二付近)、常磐町門(現:田町二付近)、大雲寺町門(現:北区表町三付近)、紺屋町門(現:北区天瀬南町付近)の5つの門が設けられ、山陽道を始め、津山、鴨方、庭瀬などへの領内外各地への往来が通じていました。

 まず本丸は、「岡山」に立地し、周囲560間(1018.18m)あまり、藩主とその家族の住居としての本段御殿、藩政の指揮系統を司る役所としての表書院のあった中の段、藩主の憩息としての下の段で構成され、その本段の建坪は828坪(2737.19㎡)あまり、表書院960坪(3173.55㎡)あまり、下の段の建坪982坪(3246.28㎡)あまりと広大な威容を誇っていました。
なお中の段の月見櫓は、戦災を免れ、国指定重要文化財として、今も在りし日のその姿を私たちの前に見せてくれます。

そして二の丸内郭は、周囲756間(1374.55m)あまりで、「石山」に立地した西の郭(現:丸の内ヒルズ付近)と、東南の郭(現:林原美術館)がありました。
この西の郭は、最も高いところは宇喜多直家時代に城の本丸があった場所ではないかと考えられていますが、周囲の堀は設けられず、東北に池田家の祖廟が、その西に池田綱政によって円務院常住寺※7(現:山陽放送付近)が置かれ、藩主の祈祷所となっていました。

また東南の郭は、当初、藩主と諸大名の対面所として使われましたが、後になって、藩主家族の住まいとなります。さらにその西端に西の丸御殿として、池田光政が隠居した後に、藩主の隠居所が置かれ、建坪2,550坪(8429.752㎡)と広大なものでした。また、東南の郭の東端には、池田光政以降、筆頭家老・伊木家の屋敷があり、その知行地から虫明屋敷と呼ばれました。 
そして内堀を挟んだ二の丸内郭の南西に、周囲総計731間(1329.09m)あまり、評定所・勘定所に加えて、家老や石高の高い重臣の屋敷が置かれ、その総建坪は13,200坪(43636.364㎡)あまりでした。

この岡山・石山の南西に、三の曲輪・三の曲輪の内・三の外曲輪の内が置かれましたが、まず内堀と中堀に囲まれた三の曲輪から見てみることにしましょう。
この三の曲輪までが、宇喜多時代に築造されたものになりますが、その北側にあたる天神山のあたりに岡山藩の支藩、鴨方池田家の屋敷、酒折宮が置かれた以外は、中央を山陽道(西国街道)が縦断し、各方面へと向う往来の起点となっていた仙阿弥橋が、三の曲輪の内との間に架けられていたことにより、町人中心の領国経済の拠点となっていました。もちろん宇喜多秀家により、その父・直家と同様に領内の西大寺・福岡・伊部・片上などから有力な商人を呼び寄せ、町人町を形成したことが礎となったことはいうまでもありません。

そして中堀の外に位置した三の曲輪の内は、三の曲輪と仙阿弥橋でつながり、宇喜多時代に北半分の町人地、小早川時代に南半分の武家地が築かれることとなります。
さらに小早川秀秋によって築かれた城郭の北・西・南端を囲む外堀(二十日堀)には、北東部の津山往来沿いに町人地が設けられた以外は全て武家地とされました。この外堀から領内外の各方面に伸びる往来については、既に述べた通りです。
この岡山城と城下町の設計は、城の防御のために流路を変更した旭川の西側域において、郭内・郭外と二分した上で、一番外側となる外堀(二十日堀)以内を郭内、以外を郭外とし、内堀以内の地には、町人の住居と旅行客の出入りを厳格に禁止しています。

ところで旭川の西側域ではなく、旭川東側域について簡単にご紹介しましょう。
もともと山陽道(西国街道)は、岡山城からはるか北に位置する藤井~古都~国府市場~三野の渡し~笹が瀬~辛川と領内を縦断していましたが、宇喜多直家の時代に、城のすぐ南側を通るルートに変更され、さらに秀家の時代になって、旭川に新たに架けた小橋・中橋・京橋~三の曲輪(町人町)~万成峠へとさらに変更されました。

この旭川への新たな架橋で、東西の往来がスムーズとなったことにより、旭川東側域へ城下町が拡大してゆくこととなります。
さて宇喜多・小早川を経て、池田忠雄の時代には、郭外の開発が進められることとなりますが、俗にお江戸八百八町とよばれ、人口100万人を越えていたといわれる江戸と比較すると、岡山の城下町は、宝永四年(1707)に武家49町(約23,000人)・町人町62町(約30,000人)であったといわれます。
この岡山城下にあった町人町62町の起こりについては、住んでいる商人の出身地や職人の職種から取って付けられることが多かったようですが、戦後の住居表示実施により、僅か石関町・小橋町・森下町・古京町などを残し、その殆んどが、今はその名を消してしまったのは残念なことです。

いま岡山城周辺を中心に、城下町地名の由来について記された石碑が設置されていますので、往時の岡山城下町を空想しながら巡るのも楽しいことでしょう。

《参照》
・岡山城誌/木畑道夫 編[他]  岡山県 明36.3
・岡山市史/岡山市 編 大正9
・岡山市/岡山城と城下町の概要

※1 二十日堀跡(岡山中央郵便局前・地名由来石碑)/現在の柳川筋で、明治から昭和にかけて埋められた岡山城の外堀跡です。慶長六年(1601年)小早川秀秋が延長約2.5キロメートルを二十日間で完成させたため、この名がつきました。
※2 (丸の内・地名由来石碑)/城のある丘は岡山とよばれ、岡山の地名の起こりといわれています。宇喜多秀家は旭川の川筋を付け替え、掘った土をこの丘に盛り上げて、岡山城本丸の土台をつくりました。
※3 (丸の内・地名由来石碑)/室町時代末に、金光宗高がこの丘に小城を構え、のちに宇喜多直家が沼城から移り、城を拡げ居城としました。江戸時代には、岡山城西之丸や藩主池田家の先祖をまつる廟がありました。
※4 (天神町・地名由来石碑)/天満天神がまつられていたため、この名がつきました。江戸時代には岡山藩の支藩、鴨方池田家の屋敷があり、郡村の政治を行う郡会所も置かれていました。終戦前には岡山県庁がありました。
※5 城を構成する区画で,陣地や屋敷地のために作り出された平場のこと。歴史的名辞や固有名詞としては曲輪の字を用いるが,最近の城郭研究では郭(くるわ∥かく)の字を用いることが多い。山城では背後を削り取り,その土を前面に盛って造成する。単なる屋敷地や畑の段と異なって防御された平場とするために,壁面を急傾斜の切岸状にするほか,縁辺に土塁を盛り上げたり,外周や尾根続きに空堀を掘って外部から遮断する。近世城郭では天守を備えた中心の郭を本丸,その外側に隣接して城主の館邸の設けられた郭を二の丸,さらに外側の家臣屋敷などの並ぶ郭を三の丸と呼ぶのが普通で,その他の諸郭に西の丸などの方角,あるいは人名を冠した呼称が用いられる。 引用:コトバンク/世界大百科事典 第2版の解説
※6 (小畑町<現:番町二>)・地名由来石碑)延喜式に記された伊勢神社を中心にしたまちで、古くは伊勢宮町と呼ばれました。延宝四年(1676)小畑町に改められました。伊勢神宮の近くの小俣町の名にちなんだともいわれます。
※7 数度の移築を経て、現在では本堂が東山に現存