以前、「温羅という鬼神」の中で、温羅伝説をご紹介しました。
温羅伝説に記された第七代孝靈天皇皇子・吉備津彦命を桃太郎、温羅を鬼神としたことが由来とされる桃太郎伝説は、今の世に至るまで語り継がれています。
笹ヶ瀬というと、まず思い浮かぶのは、桃太郎伝説で、桃が流れてきたとされる笹ヶ瀬川でしょうか。
 笹ヶ瀬川は、岡山空港のある岡山市北区日応寺地先を源として、中川・砂川などの支川と合流し、さらにその最大の支川となる足守川と岡山市南区古新田地先で合流し、児島湾に注ぐ流域面積 297.5㎢、法河川流路延長 24.8kmの二級河川です。
 では、笹ヶ瀬の地名の起りについて、寛政年間(1789~1801)に岡山藩士・大澤惟貞(おおさわ これさだ)によって編纂された『吉備温故秘録』から引用することにしましょう。
 
笹ヶ瀬 御野郡と津高郡との中間なり
 笹ヶ迫りといふを、後世笹ヶ瀬とあやまれり。笹ヶせまりといふは、西の山と東の山との間を、北より流るゝ川あり。西は津高郡、東は御野郡なり。昔は此両方の山裾に篠茂り、此川の上にてせまり合いたるかに名付たる由。又、民間の説に、北に有を鈴の瀬、南にあるを篠の井といふ。
 源平盛衰記に曰、瀬尾兼康は西川もさの渡りを打渡り、福林寺のちまたをほり切て(平家物語には、福隆寺に作れり。)しかへさか茂木ひきなどして、馬も人も通ひ難くこしらへたり。彼ちまたといふは、遠さ二十餘町、北に峨々たる山、人跡絶たる如し。南は渺々たる沼田遥に連りさり、西には岩井といふ所あり。是をば打過て、當國一の宮をも過て、さゝがせまりにかゝるとあり。(按ずるに、一の宮を過て、笹が迫りといふは、訳者の誤りなり。前後して記せるなり。實は笹が迫りを過、一の宮に至るなり。)今も此所に城跡あり。(合戦のやうは城跡の部に記す。岩井、名所の部に記す。)

 まず、この書から読み取ることが出来るのは、もともと東西の山裾に茂った笹がこの川の上で迫り合っていたため「笹ヶ迫り」と言われたが、後の世になって「笹ヶ瀬」と誤って呼ばれるようになったということでしょうか。
 そして源平盛衰記の引用が行われていますが、源氏・平家の栄枯を物語るのであれば、まず脳裡に浮かぶのは平家物語でしょうか。
それはさておき瀬尾兼康の名前が記されていますので、どのような人物であったのか吉備郡史から引用することにしましょう。
 「瀬尾兼康は備中の人なり、太郎と稱し瀬尾ノ荘を食む。壽永中平維盛に従ひて源義仲を撃ちて安宅渡に戦ひ倉光成澄の為に擒へられ将に斬られんとす。義仲其の状貌を奇
として之を釋し成澄の弟成氏の家に属して之を拘せしむ。兼康心を屈して成氏に事へ甚だ歡心を得。因て説きて曰く、瀬尾荘は水草に善し君當に乞て之を得べし、我爲めに之を嚮導せんと、成氏義仲に請ひて倶に與に往く。兼康の子宗康聞いて来り迎へ播磨の國府に遇ふ。行きて備前三石驛に抵るゝ親朋酒を載せて来り終夜劇飲す。成氏醉て臥す、兼康成氏を刺して之を殺し又源行家置く所の吏を備前國府に襲殺す。是に於て兵士を招募して二千餘人を得、寨を佐々迫に設けて之を守る。會ま義仲兵を帥て備前赴く。途に聞て大に怒り今井兼平をして之を撃たしむ。兼康敗走し備中板倉河を保つ。追兵至る。又敗る。成澄と交々搏て水に墜つ。水中に成澄の刀を引て之を殺し其の騎を奪ひて走る。宗康體肥大なり。足腫れて従ひ行くこと能はず。兼康既に行くこと里許棄て去るに忍びず。復た前所に還り相見て涙を揮ふ、既にして追兵掩ひ至る。兼康其の脱るべからざるを慮り手づから宗康を刄し力闘して數人を斬り遂に為に殺さる。
(原文は漢文:大日本史巻之一百五十四、列傳第八十一、瀬尾兼康)

 では、瀬尾兼康の遺した事蹟についてご説明しましょう。
 瀬尾兼康は、代々備中国賀夜郡板倉郷の豪族でした。
妹尾ノ荘を開墾し、氏を瀬尾と称するようになります。そして兼康の時代になり、ますます強大な勢力を誇ることとなりました。
 また弘仁式に「備中國修造堰溝料一萬束」、延喜式に「備中國堰溝修理料一萬七千束」の記載の通り、十二ケ郷用水路を修理することにより、経済的にさらに富むこととなります。
 経済的に潤っていた瀬尾兼康は、さらに板倉の山城を築き、平城と合わせて要害としています。そして平清盛の信頼を得、三国の管領に任じられるとともに、後に平家物語巻第ニ「新大納言の流されの事」にも描かれている大納言成親(藤原成親)の監視役となります。
 この後、源氏の木曾義仲の追討の大将の一人として、北陸・倶利伽羅峠の戦いで源氏の木曾義仲軍に捕らえられ、囚われの身となり、木曾義仲が兼康の剛勇を惜しみ、命を奪うことはせず、その身を倉光三郎成氏に預けます。
 平家への忠誠心を隠し、義仲に従属したかのように装いますが、ある時、世話になっているお礼として、瀬尾荘を成氏に差し上げたいと申し出ます。
義仲の許可を得た成氏は、途中、播磨の国府で兼康の嫡子・宗康と合流し、備前三石で酒宴を催します。酔いつぶれた成氏を殺し、さらに代官・源十郎蔵人行家をも襲撃し、討ち取ります。
 そして兼康の呼びかけで集まった二千余りの兵が、備前・福竜寺縄手、佐々迫(篠のせまり)に砦を築き、追っ手を待ち受けることとなります。
 義仲は兼康の裏切りに怒り、今井四郎兼平を三千余騎で差し向けます。
 戦いは続き、砦も捨てて敗走する兼康は、降伏を勧める倉光次郎成澄を殺し、その馬でさらに逃げようとしますが、嫡子・宗康が太っていたため、ついて来ることが出来ませんでした。
一度は見捨てて逃げたものの、親子の情もあり、宗康を助けるため引き返しましたが、助からないことを悟った兼康は、宗康の首を切り落とし、追っ手の兵を数人切り倒した後、自身も58歳で最後を迎えることとなります。

 この大日本史の記載にも、「佐々迫」つまり「篠のせまり」という表記が見受けられますので、吉備温故秘録が指摘している「笹ヶ迫りといふを、後世笹ヶ瀬」と合致してきます。
寛政年間には既に「笹ヶ瀬」と呼ばれていたようですが、いつの時代から呼ばれるようになったかは定かではありません。
 本当に地名ひとつひとつに秘められた由来は実に奥深いものがあります。
 さて岡山には、源氏・平家の戦いを、水島合戦(参考源平盛衰記「源平水島軍事」)にも見いだすことができます。
 平家物語、参考源平盛衰記を参照しながら、源平の古戦場を訪れてみるのも、また新たな感動を味わえるかも知れませんね。

《参照》
・笹ヶ瀬川水系河川整備基本方針 平成19年7月 岡山県
・吉備群書集成 第八輯 吉備群書集成刊行会 編 吉備群書集成刊行会
・吉備郡史 永山卯三郎 編 (岡山県吉備郡教育会, 1938)
・参考源平盛衰記 「兼康板藏城戦附依行家謀反木曽上洛事」