岡山で焼き物といえば、まず脳裡に日本六古窯のひとつ備前焼が浮かびます。
今回は、京風の流れを汲む虫明焼にスポットを当てることとしましょう。
虫明焼について、瀬戸内市のサイトには、「鉄絵に土灰釉(虫明では並釉と呼ぶ)を掛けた薄作りの茶碗・水指、乾山風の赤絵鉢、灰釉と鉄釉を掛け分けた徳利などに加え、白磁染付のものも見られ、しょう洒で洗練された作風が、岡山県内では大変珍しい存在」※ 1と書いてあります。
さて、この虫明焼がいつから焼かれたのかは定かではありませんが、「虫明焼は邑久郡裳掛村に産し天保年間奮藩主池田家の國家老伊木三猿斎の創始に係り茶器の如きは愛玩すべき逸品を製出せしが維新後は僅に其命脈を存續するに過ぎざるの状態に在りて之が再興計畫中なり」と、大正11年に発行された「岡山県物産概要」に述べられています。
この明治維新後に虫明焼が廃れていたことについて、明治33年(1900)に発行された「陶器類集:鑑定秘訣」にも、「虫明焼ハ文化年間、備前岡山ノ藩士伊木某、京師ヨリ當時名人ト聞ヘタル眞葛某ヲ招キ茶器ヲ造ラシタルと云フ。其他京師ノ名工該地ニ遊ビ製セシモノ尠カラズト云フ。器ノ裏ニハ必虫明ノ印アリ。土質ハ京師五條ニテ製スル處ノ御本傳寫ニ似テ緻密ニシテ堅ク甚ダ上好ノ物ナリ。世ニ稀ナレバ殊ニ世人ノ珍重スル所ナリ。廢窯シテ今ハ存セズ」と述べています。
つまり虫明焼については、「器の裏に必ず虫明の印があり、土質は京都・清水寺への参道となる五条坂界隈つまり清水焼に似て緻密で、堅固で、上品な焼き物であるが、世にも稀な焼き物なので、世間の人から珍重されているものだった、でも窯は廃止となり、今は存在しない」とあり、明治の世では廃れていたことが、この書からもうかがえます。
さて今の世になって、伝統技術を継承する陶芸家により、蘇った虫明焼を見ることが出来るのは、本当に嬉しいことですよね。
平成23年には、岡山県文化財保護審議会の答申に基づき、岡山県指定重要文化財(重要無形文化財)【虫明焼製作技術-江戸時代からの虫明焼の伝統技術を継承し、現代的な造形感覚とデザインを取り込んだ虫明焼の新境地を確立-】として指定されています。
では、この虫明焼のルーツを覗いてみることにしましょう。
時は伊木三猿斎より前の寛政年間(1789~1801)のことになります。
今吉吉蔵という人が、虫明の地で、伊部から陶工を招聘し、陶器の製作を始めますが、
この後、伊部焼(備前焼)模造の罪に問われたことから、虫明焼の起源として、その流れは一旦絶たれることとなります。この時点での虫明焼は伊部焼(備前焼)とほぼ同じものだったと考えられます。
この後、伊木家の事業として、瀬戸釜屋舟入所に陶器製造所を設けて、陶器作りが始まり、さらに天保八年(1830)に窯を宇立場に移転し、その後10年間に渡って行われることとなります。
そして今に伝えられている京風の優雅清楚な虫明焼のルーツは、弘化二年(1845)春に、備前岡山藩筆頭家老・伊木若狭(後の長門・本名を忠澄)が、京都から名工・清風輿(与)平を招聘し、釉薬を使った楽焼風の茶器そのほかを虫明で焼かせたこととなります。 さて、この伊木若狭は、筆頭家老として3万石の知行を取っていましたが、幕末の風雲の時期に、備前藩にその人ありと聞こえた勤王家であった反面、号を三猿斎と称し、風流茶人としての資質を兼ね備えていました。
伊木若狭については、幕府による長州征伐の抑止を藩主に進言するなど、幕末期の藩政に大きな影響を与えていますが、またの機会にご紹介することにしましょう。
さて清風輿平は、半年余り虫明の地で過ごしますが、この後、慶応四年(1868)同じく京都の名工・宮川香山が九州各地を巡り歩いた帰途に、岡山で三猿斎に知遇を得て、明治二年(1872)春まで、さまざまな虫明焼を焼くこととなります。
岡山は、古から備前焼・虫明焼・閑谷焼※2 という焼物を産してきました。
このうち閑谷焼は今の世の中には伝えられていません。大正3年(1914)発行の「奈良帝室博物館陶器一覧」には、その説明として、「閑谷焼ハ和気郡伊里村大字閑谷ニ於テ、製スル所ノモノナリ、而シテ、其始ズ詳ナラズ、或ハ云フ、寛永年間國主池田光政ノ手窯ニシテ、其製品ニハ一切印ヲ用井ズト云フ、土質は緻密ニシテ、赤色ヲ帯ビテ軟滑ナリ、上釉ハ種々ノ色ヲ施ス、其精巧ナルモノハ、人物、置物等ナリ、元来賣品ニ非ルヲ以テ、世ニ存スルモノ甚タ稀ナリトイフ」とあり、もともと池田光政の手窯として造られ、販売用のものではなかったことから、世に存在することが極めて稀と述べています。
今、閑谷焼窯跡(閑谷学校)で、その名残をとどめているだけとなります。
とは言え、上古の時代に遡り、土ものについて、「備前」がその代名詞といわれたように、古窯群や出土物から推測しても、備前岡山の名産であり、いかに盛んなものであったかは否めないでしょう。
《参照》
※1 瀬戸内市公式サイト「虫明焼について」から引用
・岡山県商品陳列所篇 (1922)
・陶器類集 : 鑑定秘訣. 中(巻之2) (1900)
・岡山市史第4 岡山市 編 (岡山市, 1938)
・岡山県人物伝 岡山県 編 (岡山県, 1911)
・奈良帝室博物館陶器一覧 奈良帝室博物館 編 (奈良帝室博物館, 1914)
・※2 (閑谷焼窯跡)閑谷学校創建時の瓦を焼くために設けられた窯跡。窯は全長約9mほどの小窯2基と考えられている。のちにはこの窯を利用して祭器、茶器、細工物などの閑谷焼を焼いた。現在は一部が宅地となっており,僅かに残る窯の側壁などに往時の面影を見出すことができる。(公益社団法人 岡山県観光連盟 おかやま旅ネット サイト掲載)