池田光政の治績について、今回は神社制度の確立に伴う寄宮について考察することにしましょう。
時は寛文年間(1661~1672)に遡ります。
当時、備前岡山藩が領有した備前ならびに備中の一部には、神社・小祠の数が、なんと1,130社もあり、その多くが荒廃し、山伏・巫女が疫癘(疫病)、災難、狐や狸の祟りなどと、
人を迷わせる言葉や噂を流して、迷信の悪影響がピークに達していたといわれます。
これを深く憂いた光政は、寛文六年(1666)神社の整理統合を行うために、まず領内にある神社の由緒を厳密に調査させ、幕藩体制の基底をなした農村社会の存在形態であった郷村の氏神として由緒正しい神社について、衰頽(衰退)していた社を復興させるなど、601社にのぼる社を残すことにより、祭祀を厳かに執り行うこととしました。
併せて、由緒の不確かな小さな社10,529社を廃止するとともに、新たに各郡の代官所76ヶ所に、各1社を建立し、廃止された社を合祀しました。
この寛文七年(1667)に行われた合祀を寛文の寄宮といわれます。
欲年の寛文八年(1668)に、池田光政は、「近年社人神道之儀式紛敷成色々事有之二付書付ヲ以テ神主中へ書物被遣候文言之覚(留帳)」を定め、神前における作法を定めて、神を敬うことについて明確にしています。
しかし、迷信の類は、容易に拭い去ることが出来なかったため、元禄に世が変わるひとつ前の貞享年間(1684~1687)に、産土神以外の叢社取締令が出されています。
このことは、享保二十年(1735)に出された寺社奉行の役所内の通達文書には、「貞享年中御改之節帳面外レ申末社並ニ右御改以後年々出来ノ新規小社、都合三百七十九社」とありますので、寛文の寄宮以降、新たに建立された神社が数多くあったことを物語っています。
この後、元禄年間にも、叢社取締令が出されますが、十分な実効性を持つものではありませんでした。
文化四年(1807)に出された通達から、一部ご紹介することにしましょう・
一.村々亦ハ百姓家々祝神抔ト號シ保古良有之候共外へ出事は勿論、小キ瓦社ヨリ外目立候社可爲無用事
一.新ニ社ヲ取建出家亦ハ神職相願何レ之神ニ而モ至勧進候事不相成事
一.氏神之札守等氏子へ配札致候事並氏子ノ内宗門之義に付紛敷義共見聞致候得者、御定法之通社家ヨリモ心ヲ付可申事
一.自他所入込申紛敷祈祷者ト申者相契申合祈祷紛敷札守等村辻ニ建候事不相成候事
これを見ると、「人々が祝神と称して、敷地内に小さな祠を祀っているが、敷地外に建てるのはもちろんの事、目立たないようにすること」「新たに社を建立し、神職に勧進を願うことは出来ない」などとありますので、村落の隅々まで、なかなか通達が行き届かなかったことを物語っています。
そして光政の寛文の寄宮から46年が過ぎた正徳年代(1711~1715)になり、時の備前岡山藩主であった池田綱政は、再び神社の整理を行うことになります。
もちろん狙いは、光政のときと同様に、まず神社制度の確立、敬神思想の普及の上に、由緒正しい神社はいうまでもなく、衰頽(衰退)していた社を復興させ、祭祀を厳かに執り行うことにありました。
正徳の寄宮が行われた正徳二年(1712)は、新井白石による文治政治である「正徳の治」が、行われることとなった時代と重なります。
そして「正徳の寄宮」では、大多羅にあった句々廼馳(ぐぐのち)神社の境内を拡張し、71社のうち、邑久郡土師・邑久郷・藤井・備中六條院・笹沖の5社を除いた66社を寄宮にすることとし、京都神道官領吉田家の証印を請け、遷宮を行っています。
この寄宮について、神職・見垣近江守が寺社奉行・門田市郎兵衛に宛てた正徳二年(1712)の書状にはこのように書かれてあります。
一、御寄宮ハ元田畑邊リ所々不正之地ニ御座候、小保古良社號神號モ不知ヲ御集被遊候へ者氏神と申儀ニ而者無御座氏神産土神ハ古ヨリ山川海陸共限リ敷地御座候、若其村ニ神社崇敬之願御座候ハ、氏宮ノ末社ヲウツシ氏宮トナシ、其儘末社ニ而崇候事例有義御座候 以上
幕藩体制の崩壊する明治以前においては、備前岡山藩により、概ね藩から領主の支出に係る社領をもって充てられ、社殿の修理建て替えの時にも、同様に領主の寄付によるものが多かったようです。
この社領について、100石以上の神社は、玉井宮東照宮(1,000石)、岡山神社(305石)のみでした。
そして明治維新にあわせて、政府は神社制度の確立を行い、権現・菩薩・天王などのの社名、鰐口・梵鐘・木魚等の仏教に纏わるものを用いることを禁じるとともに、さらに明治四年(1872)七月太政官布告により、神社の社格を官幣社・國弊社・縣社・郷社・村社・無格社に定め、小さな社の整理を行っています。
また明治の世になってからは、藩から支給されていた社領による支給が無くなったため、
明治八年(1875)に、祭神を大多羅にある布施神社に合祀しました。
いま私たちが見ることが出来る大多羅寄宮跡は、東西9間(約16メートル)、南北10間(約18メートル)の境内と石垣となります。
この大多羅寄宮は、平賀元義・歌碑(長歌)~布施神社~平賀元義・歌碑(短歌)~大多羅寄宮跡と巡ることが出来ますので、ご興味のある方はいかがでしょうか。

《参考》
岡山市史 5 岡山市 編 (岡山市, 1938)