今の世の中、1942年に公布された日本銀行法による管理通貨制度の下、通貨の発行量は中央銀行である日本銀行が調節しています。

時を遡り、江戸時代には、幕府が金・銀・銭貨の3正貨の鋳造権を独占し、流通経済の発達により、岡山藩をはじめ全国の諸藩は自領内の通貨不足をきたしても、自ら貨幣を鋳造することは出来なかったため、幕府の特別な許可を得て、貨幣の補完とするために藩札の発行をする動きが出て来ました。

この特別許可の期限は、20万石以上は25年、20万石以下は15年とされ、期限満了の2~3年前までに継続申請が行われていたようです。

藩札は、一般的な定義として、「江戸時代の諸藩政府が原則として領内通用を目的とし、各藩の財政部(=勝手方)および藩用達商人(=札元)、またはその何れかに発行させ、正貨への兌換を約束した紙幣」と解されます。

よって、今の日本銀行券が金貨と交換不可能という点で大きな違いがありますが、この藩札発行に伴う兌換のための銀の準備が殆んど行われていなかったとされますから、あくまで藩の財政を重視した施策であったと考えられます。

さて、「藩札」という名称は、当時存在せず、その額面表示方法の種類により、金札、銀札、銭札、米札などと呼ばれていたようです。ちなみに岡山市史に収録されている岡山藩の藩札は、「備前岡山銀札」という表示となっていますが、本コラムでは、以降、「藩札」として進めることとします。

では、岡山藩の藩札発行について見てみることとしましょう。

藩札発行の大きな原因は、池田光政の晩年頃から、既に岡山藩の財政は窮乏の域に入りましたが、津田永忠の手腕により、経済困窮を乗り越えていました。

とはいえ、その子・綱政の時代の延宝七年(1679)に至って、この年の凶荒に加えて、藩経済の自然膨張のため、更に悪化の一途をたどることとなります。

また光政時代の質素倹約の反動でしょうか、奢侈の風潮が見られたことから、余計に財政を悪化させ、上方の商人からの借り入れも、正保年間以来、一口銀1,000貫を超えなかったものが、寛文年間以降、一口銀3,000貫にものぼることさえありました。

このため享保年間には、藩士から知行高100石に付き金2両の上納金を課したり、多額の藩債を発行することがしばしばありました。この藩債が城下の金融システムを不全に陥らせたのみではなく、債権の元となる銀の流出による債券相場の暴落のため、物価の高騰を招くこととなりました。

このような状況の中、藩札が発行されたのは、延宝七年(1679)のこととなります。この年9月2日付で、藩札通用の規則を公布し、金銀の通用を禁じることとなります。

これにより取引を行う場合、あらかじめ藩の定める札場で金・銀・銭を藩札と引き換えることが求められました。

この交換レートも、銀100目⇒藩札101匁、藩札102匁⇒銀100目と、藩にとって実に有利な設定が行われていました。

本来、引き換えられた金・銀・銭は、正貨への兌換を約束した紙幣と考えれば、当然、手数料を徴収した上で預かっていることになりますから、藩札の流通額は当然同額に近いものでなければならないはずです。

とはいえ実際の運用においては、藩の財政窮乏による必要性から藩札を乱発したため、藩札発行額と兌換の準備高バランスが崩れ、インフレを引き起こす要因となります。

やがて、この交換レートは、「掛札の制」といわれる固定相場から、その日その日の交換率を札場に掲示する変動相場に変わってゆくこととなります。

藩札流通規定では、交換レート、他国から来た商売人の取り扱いなどについて定められていますので、以下参考までに記載しておきます。

《寛文十年八月に出された藩札流通規定》

一、札賣買の事銀百目持参仕札百一匁請取、札百二匁持参候時は銀百目可請取、尤銀札共に多少有之時は取遣歩合右の可爲割符事

一、岡山在々共札遣に被仰付上は御家中末々町在々共諸色賣買の儀少にても銀取遣仕候はば賣手買手共に急度曲事に可被仰付事

一、御藏入給知共年貢米麦大豆共代金にて拂申分は札にて請取可申候、相場の外に札歩合代銀百目に付二匁相添請取可申候並諸運上も札歩可爲同事

一、御蔵並御家中共拂米麦大豆其外俵物速と札賣に仕右の歩相相場の外に出候様に被仰付事

一、札賣買下にて仕候儀停止の事

一、他國の者諸事賣買に参り候はゞ宿主肝煎札買遣候様に被仰付事、縦ば隣國より其

日歸りに賣買に参り候共銀にては一切取遣仕間敷事

一、旅人諸奉公人懸通の儀は各別に候間銀にても取遣候様に被仰付、但一日共逗留仕候者は宿主肝煎札買せ銀遣仕間敷事

一、小判一分の両替の儀各札にても可仕候、尤金子にて札の外買物一切仕間敷事

一、銀遣の儀は二分迄は札有之上は、札二分より下銭遣に被仰付事

一、損札の儀は札一枚につき銭二文宛持参仕候はゞ新札に替遣可申事

一、札場銀包の事十匁より上は包に仕十匁より下は手包にても相對にても取遣仕候事

一、札包の事札百枚より上は包に仕百枚より内は相對に可仕事

一、札賈買下にて仕候儀御法度に被仰付候上は岡山計に札場被仰付候ては御國中札手閊可仕候間或は牛窓下津井片上作州境備中地領境に札場可被仰付事

一、借銀返濟の儀も札拂に被仰付候前廉より借来りの分は札歩相添可遣事、尤此以後借銀取遣の儀は歩相有之間敷事

一、御銀奉行手前にて御用に遣候札賈買御家中同事に被仰付候事

一、江戸御供留守番用意銀路銀駄賃並方々御使者路銀又御初尾御褒美銀被遣銀共に前々の通銀渡にて被仰付事

一、御家中男女共に銀給の分は札にて可遣事、但只今迄銀給取来候分は札歩相添可遣事

一、似せ札仕者於有之ては不及申一類共に罪科に被仰付並五人組共曲事に被仰付事

一、若し他所より似せ札持参者有之は其者押置早々奉行所へ注進可仕事

さて、池田光政~綱政の時代、津田永忠が藩政を取り仕切っていた頃ですが、藩札を発行したものの、その状況は殆んど改善されなかったようです。

元禄十年(1697)七月から元禄十六年(1703)年十二月まで、津田永忠による財政整理が行われることとなります。

では永忠の上申書からご紹介しましょう。

【津田左源太手録】仰之趣奉畏申上る口上

御借銀御作廻之儀は少存寄候御勝手方御作廻之儀ハ中々私共之了簡に及不申候に付其段も先日申上候其以後考候は當暮の御借銀の辻夥敷儀に御座候其上只今之江戸御物入大分之事に御座候得ば大形の儀にては御借銀減り申間敷と奉存候其に付愚意を申上候兼々申上る通の私儀に御座候得ば只今之内に何がな御奉行申上度と奉存罷存候御簡畧之儀 殿様御苦労に可被思召と乍憚奉推察候に付存寄候は御勝手方御作廻御借銀御作廻共に近年之内速と私に御任せ被遊候はば不成迄も何卒相勤年々御聞やかましき儀無之様に仕見申度奉存候此御用は仕損じ候とて害の出来候事も御座有間敷と奉存候只御借銀の減り不申と申出の儀に御座候と奉存候故輕々敷事ながら所存申上る儀に御座候

一、凶年に當り備前備中御領分の百姓共喰物無之一人にても餓死仕らせ候ては兼々 殿様仰付置候御趣意に相違仕殊の外重き儀に奉存候御百姓共育之儀は御上には細なる事は御存不被遊儀に御座候得は咎なき者を喰物無之餓死仕らせ候ては數年之被仰付無に罷成候儀と奉存候大形の儀にては御百姓共餓死は仕らせ申間敷と奉存候得共年柄により大分飢人可有之も難計又は續き凶年可有之も不知事と奉存候に付私存る様に育物貯候迄は御郡方へ請込申候御米之内指上候事は難仕奉存罷在候得共此節に當り考候に當年の世中只今迄の通に御座候得ば銀子五百貫目計は御郡方より指上苦ケ間敷と奉存候

一、兼々申上候通御百姓共救候は人に不當土地之不順を直し候程の御救は無之と奉存候所々土地之不順を直し申候得共未残り居申候近年の内にケ様の儀をも申付度奉存候

一、近年之御郡方之趣に御座候得ば年柄に大變無御座候はば此以後御郡方より銀子少宛指上候事可成と奉存候得共右二品之存念御座候其上何之埒も無之指上候ては御勝手方御作廻之御足りにも差て成間敷と奉存候御城の御所帯と御郡方之作廻と打込に仕其年之模様次第に御借銀之御作米近年之内仕見申度奉存候何卒右に申上候御郡方二色之趣意も立又は御勝手方御作廻之御足りにも成御借銀も減り候様に仕度奉存候然共江戸御物入大分之儀に御座候得ば存る様には御借銀減り申間敷と奉存候得共少成共御益に成候得ば本望に奉存乍憚所存申上る事に御座候以上

七月二十三日

津田左源太

ところで藩札ですから、その通用範囲は本来、発行した藩内に限られるものですが、岡山藩藩札にあっては、作州方面、岡山藩の飛び地領があった備中方面、特に鴨方は分藩があったため、かなりの流通があったとされています。

しかし、この藩札については、寛永四年(1627)十月には、地方によって藩札の流通する所としない所があり、貨幣流通上、好ましくないと、幕府から岡山藩に対して藩札発行を停止するようにとの命令も出ています。

今回は、「岡山藩の財政悪化と藩札」として、その発行の発端を中心に見てきましたが、この藩札自体、明治四年(1871)に、時の新政府により償還されるまで、紆余曲折はあるものの続くこととなります。

《参照》

・藩札の果たした役割と問題点*/日本銀行金融研究所「金融研究」第8巻第1号(平成元年3月)

※江戸時代の大名領を「藩」と呼ぶようになったのは、中期以後で、かつ一部の知識階級の用法に限られていた。これが公称となったのは明治維新後である。すなわち明治元年(1868年)新政府が、旧幕領には府県制を、旧大名領には藩制を設けたのが始まりであり、これらの府・県・藩が発行した紙幣を、夫々府札・県札・藩札と称している。従って、「藩札」という名称は、厳密には明治以後の地方行政たる「藩」が発行した紙幣の呼称であるが、現在では、これを江戸時代の大名領の紙幣一般に及ぼして用いているのである。

※藩札は、通常、幕府鋳造の正貨を裏付けとした金札・銀札・銭札の形態をとっていた。しかし、幕府の藩札発行制限強化の姿勢を眺め、例えば米札のように実質的には銀札でありながら、領内産物である米を引当てに発行したという形態を装った者もの(米札のほか、炭札、傘札、綛糸札、轆轤札、肥代預り等)、藩士の贈答品代倹約の趣旨から発行されたもの(鯣札<慶事用>、昆布札(凶事用)>)など、特殊なものも少なくなかった。

・岡山市史/岡山市 編/岡山市/1920

・封建社会の統制と闘争/黒正巌 著/改造社/1928