「わたしゃ備前の岡山育ち・・・」ではじまる大名行列の道中唄によって、参勤交代の街道沿いに、米どころ岡山が広まったとされます。
さて岡山の地形を考えると、当時の農業手法において、米作に適していたのは、県南の備前平野など、ごく一部だったようです。そして領内の多くの部分が山地だったこともあり、農業の発達は、藩政初期の津田永忠による新田開発が行われた後となります。
ところで岡山城下では、岡山藩初期において、毎年、旭川が氾濫し、甚大な被害に見舞われていました。
この水害について、当時日本で治水山林事業の第一人者といわれた熊沢蕃山の創意が、津田永忠によって実現されることとなります。

蕃山曰く
川堀り砂留めなどの末なることにて自由を為さんといふは無効なることに候。誠に食の上の蝿を追ふ如くなるべく候。水上の水流れの谷々山々の草木を切盡し、土砂のからみ保ち無き故に一雨毎に河中に土砂流れ入りて川床高く、川口埋れ候也。其本を善くせずして末のみの才覺は何として成べく候や。山々谷々残りて流れ入るべき土砂止り候へば、大雨の夜毎に今ある土砂は自然に大海に入て川水深くなり候勢にて候。あとから流れ入ること大なる故に始の砂も海には落ち難く候。

まず岡山城下の東堤を壊すことによって水の勢いを和らげ、これを東方面に流れる水路を造り、さらに南方面として、児島湾に注ぐこととしました。この支流となる人工の放水路が後の百間川となります。
蕃山は、百間堤の他にも、笹ケ瀬川などを疎通させたり、堤防を築いたりしていますが、何よりも川底を深くすることに努めています。川底の浚渫だけではなく、低水位を保持することによって、潅漑と舟運の便宜を図るとともに、児島湾に注ぐまでの遊水面積を広げることとなりました。これらは、洪水の要因となる高水位の低下と水勢の緩和を同時に行う者でした。

さて蕃山の治水山林にかける思いを「集義外書」から引用しましょう。

一 来書略、領分に鹽濱を可申付所あり、又山林によつて焼物をやき申度と望者候、主人勝手不自由に付、何ももよほし可申覺悟に候、いかゞ
返書略、五十年此かた鹽濱の出来たる事むかしに三倍せりと老人の物語候き、又老農の申しは鹽の高直なる年は世の中よく、鹽の澤山なる年は世の中あしく候、いかんとなれば旱には鹽多くやき、雨つきよければ鹽多くやけず、しかれば鹽濱今の三箇一を減じても人の迷惑に及べからず、多によつていらざる魚鳥をも澤山に鹽して、鳥魚まですくなくなり候、又老人のかたりしは茶碗、皿、よろづの焼物の多事、五十年以前には二十倍なり、むかし一通り、もちたる者、今は十通も持候、澤山なる故に大事とせずわりくだき候、是は猶以今の十分の一にしても人の迷惑に及べからず、鹽濱と焼物との山林を盡すことは大なる事也、それ山林は國の本なり、春雨五月雨は天地気化の雨に候、六七月の間には気化の雨はまれにして夕立を以て田畠を養へり、夕立は山川の神気のよく雲を出し、雨をおこすによれり、山は木ある時は神気盛んなり、木なきときは神気おとろへて、雲雨ををこすべきちからすらなし、しかのみならず木草しげき山は土砂を川中におとさず、大雨ふれども木草に水をふくみて、十日も二十日も自然に川に出る故に、かたゞゝもつて洪水の憂なし、山に草木なければ土砂川中に入て川とこ、高くなり候、大雨をたくはふべき草木なきゆへに、一度に河に落入、しかも川とこ高ければ洪水の憂あり、山川の神気うすく、山澤気を通じて水を生ずる事も少なければ、平生は田地の用水すくなく、船をかよはすことも自由ならず、これ皆山澤の地理に通じ、神明の理を知人なき故なり、國に忠あらん人は鹽濱と焼物とを減ずとも増べからず、其上古人も山をつくすものは子孫おとろふと申傳候 (以下省略)
(集義外書/熊澤了介著)

この中で、「それ山林は國の本なり・・・」と記し、治水山林が国政にとって、いかに重要なことかを語っています。つまり旭川上流で行われていた古代製鉄のタタラによる山林破戒、また宇喜多氏の岡山城築城の際に行なわれた旭川流路の変更など、自然災害というより、人為的な災害であったことを示した上で、治水山林の重要性を説いています。
ところで、熊沢蕃山ではなく、津田永忠によって、これら事業が着手されたのは、どうしてなのでしょうか?
この答えは、蕃山の言葉から見てみましょう。

一の不義を行ひ、一つの不幸を殺して天下を得ることもせざるは朱子王子變りなく候。拙者世俗の習未だ免かれずと雖も、此の一事天地神明に質しても古人に耻づべからず。

熊沢蕃山は、政策を一つ行うにしても、これを実行する時に、一つの不義を行ったり、一つの不幸を見過ごすことを、決して許しませんでした。たとえ些細なことであっても、犠牲を払うことは極力避け、まず第一に民を本意としたのです。

とはいえ熊沢蕃山の創意、そして津田永忠の実行力が、岡山城下の水害被害を軽微なものとしたことは、言うまでもありません。
今の世にも残る古人の創意と工夫の恩恵を私たちは享受できていることに感謝しましょう。

《参照》
・熊沢蕃山言行録 偉人研究叢書第17編/本田無外 編/内外出版協会, 1908
・日本経済叢書.巻33/滝本誠一 編 /日本経済叢書刊行会/ 1917
・封建社会の統制と闘争/黒正巌 著/改造社/ 1928
・旭川の歴史・文化(テーマ別) – 中国地方整備局 – 国土交通省
・岡山県の砂防/岡山県内務部 編/岡山県内務部/1923