岡山藩における経済活動についてご紹介することにしましょう。
今回は「問屋株」についてのお話です。
今の時代、問屋といえば、流通における卸売業者と認識されますが、もともと鎌倉時代に「問丸」と呼ばれた運送・倉庫などを業とするものが、室町時代に「問屋」と呼ばれるようになったことに由来します。
ただ江戸時代の問屋が現代と大きく違う点を確認しましょう。
それは、時代劇などでもお馴染みですが、江戸時代の問屋が為政者から特定の商品について専売等の特権を与えられる見返りに、冥加銀という名前のいわゆる営業税を納めたことになります。
ただ特例も存在し、藩の用達品を取り扱う場合、冥加銀は免除されたものの、用達が出来なかった場合には、藩から厳罰を処せられることもあったようです。
ここで冥加銀と記しましたが、江戸は金本位制、上方(大坂)は銀本位制がとられていたことに加えて、多くの諸藩と同様に岡山藩の蔵屋敷※1 が当時、経済・物流の中心であった大坂にあったこと、京・大坂商人からの借り入れを銀で行っていたことからもうなずけます。

さて岡山藩における問屋株についてどのようなものがあったのでしょうか。
もちろん株数に制限があることが本来であり、営業の許可を必要としたものの、制限の無いものは町奉行所に届けるだけで営業が出来たようですが、その成り立ちには、様々な要因が存在していました。
例えば以下の要因があげられます。
①運上取立ての必要により設置されたもの・・・鹽(塩)問屋
②藩の用達品を扱うため、特に問屋株の保護を授与したもの・・・魚問屋※2、鮎鱒問屋、材木問屋
③古来の商習慣を維持するもの・・・成物※3 問屋
④多くが国外の産物を扱ったことによるもの・・・茶問屋※4、樒(しきみ・しきび)問屋
⑤幕府の綿実取締りの関連して設置されたもの・・・木綿問屋
⑥特に功労があった町人に対して、問屋株の独占的地位を与えたもの・・・藍玉問屋

 

では、問屋の中で興味深いものをご紹介することにしましょう。
樒問屋について、樒といえば、真俗佛事編※5 供佛 樒ノ實(実)ハ本天竺ヨリ来レリ本邦ヘハ鑑真和上ノ請来ナリ其形天竺無熱池ノ青蓮華ニ似タリ故ニ此ヲ取テ佛ニ供ス(樒を仏に供える/樒の実はもと天竺(インド)より渡来した。本邦へは鑑真和上が請来した。その形は天竺無熱池の青蓮華に似ているので、この木を仏に供える)と書かれ、お寺さんやお墓で樒を植えてあるのをご覧になった方も多いと思います。
ただ、その果実は猛毒があり、植物で唯一「毒物及び劇物取締法」の劇物に指定※6 されているそうです。
さて、(1759)6月、下出石町大黒屋石右衛門の問屋営業許可願いの中に「御本段西丸御郡會所先年より御用之鮎被爲仰付候難有奉存候」の記載があります。お城への鮎の納入独占許可を願い出たものとなりますが、興味深いことに「然る處出石三町小賣(売)之者共出買を仕振賣(売)者指廻り候左候得者私方への得意之獵(漁)師より鮎持参不仕候に付日々御用に指支候鮎無御座候而迷惑仕候御用聞手前に無之と申候は不埒千萬之儀と度々御用場にて御叱を受迷惑仕候・・・」とあり、問屋営業許可の出る前は、小売業者による漁師からの直接の買い入れがあって迷惑を蒙っているとし、小売業者による直接買い付けを禁止することにより、問屋としての地位を保とうとしています。
なお、この鮎、鱒問屋は明治維新の頃まで存在したようです。
ところで、今の時代、お茶といえば、京都(宇治)、静岡、鹿児島などが挙げられますが、
江戸時代、岡山には、美作(美作市)・讃岐(香川)・伊予(愛媛)・紀伊(和歌山)・土佐(高知)などからお茶が入ってきていたようです。
美作でお茶??と思えますが、美作番茶※7 と呼ばれるものであったと考えられます。また高知も、碁石茶(ごいしちゃ)と呼ばれる番茶だと考えられますので、緑茶というより、ほうじ茶中心であったのでしょう。
余談となりますが、このお茶が庶民に嗜まれるようになったのは、いつごろからでしょうか?
奈良・平安時代に遣唐使や留学僧によってもたらされといわれるものの、岡山出身である臨済宗開祖の栄西禅師が、当時の宋(中国)から茶種を持ち帰って日本において栽培を奨励し、喫茶の法を普及されたことは有名なお話です。栄西禅師は、座禅修行者に限らず、一般の人に対して茶は保健上から良薬であると、茶徳を讃得たのが開山の『喫茶養生記』で、上下二巻にわたり、喫茶の法、茶樹の栽培、薬効等茶に関する総合的著述となっています。※8
この後、千利休らによる「茶の湯」を経て、江戸時代に至りますが、武家階級を中心とした儀礼的なお抹茶ではなく、やっと庶民の飲み物として普及したのはいわゆる番茶だったといわれています。永谷宗円(1681~1778)が、今の日本茶の主流となった宇治製法によるお煎茶を考案した※9 ことによって、江戸の民衆の中に浸透、定着したそうです。

 

《参考》岡山市史
※1 築島町(中之島2丁目大坂中央郵便局の一部)、綿屋町(堀川監獄前※戦前に存在した)
※2 寛文八年(1668)正月、町奉行より「御献上御用肴の儀、魚問屋共より指出可申事。以後魚問屋株外方より致候事令停止候」と布達。
※3 寛永七年(1630)惣年寄から町奉行への書き出しに、成物問屋は「慶長年中(1596~1615)より仕来り候由」と記載。郡部より岡山に入る瓜、西瓜など成物を扱う。
ただし、成物問屋3軒以外で、邑久郡射越村ほか6村に産する瓜、西瓜類を取り扱う射越瓜問屋も存在した。
※4 新古條例集(享和三年(1803))「作州槙山茶」「紀州田邊(辺)茶」「土佐茶備後落合」の記載が見られる。
※5 明治十九年発行 真俗佛事編(和漢) 子登著
※6 みんなの趣味の園芸 シキミの基本情報
※7 美作番茶「日干(にっかん)番茶」(ほうじ茶)
土用の暑い日(7月中旬~8月中旬)、枝ごと刈ったお茶の葉を大きな鉄釜で蒸すように煮る。むしろの上に煮たお茶を広げ、煮汁をかけながら太陽の光で干す。
この製造方法から”天日干し番茶”ともよばれており、煮汁をかけて天日で干した番茶は、煮汁の茶渋のためにあめ色に輝いている。 中国四国農政局siteより
※8 茶祖/開山栄西禅師 建仁寺公式siteより
※9 永谷宗園茶店公式siteより