いわゆる「生類憐みの令」は、5第将軍・徳川綱吉のときに発布されていますが、その発端について文武太平記には、綱吉の母である桂昌院(けいしょういん)の帰依僧・隆光(りゅうこう)が「将軍戌の年に渡らせ給ふ。右馬頭(うまのかみ)とも申し奉る。天理を以て天下の主と成らせ給ふ。然ば善根を施こし給はねば、御壽短し。戌の年の御生まれ、又御治世の天和二年は戌の年也。爰(ここ)を以無益の殺生を禁じ、別して戌をいたわり候様に被仰付なば、御病気御快全疑ひなし」 と説いたと書かれていますが、この隆光は、綱吉が嫡男・徳松を亡くして以降、子供に恵まれなかったのですが、仏説である思想から「生類憐みの令」を厳守させることによって、この呪縛から解き放たれると考えたのでしょう。

この悪法により、例えば「天野五郎大夫を遠島に被仰付候。是御本丸御膳井へ、猫二疋迄落入申候を不存、毛もぬけうきあがり候時に、見付出したるゆえ也」※1とありますが、台所の井戸に猫が落ちて死んだために、八丈島に流されたのですから、まさに悪法といわれるゆえんでしょうか。

さて吉備群書集成を紐解くと、備前岡山藩の掲示の中に「十五、生類あはれみの事」として記載がありますので、ご紹介しましょう。※2

十五、生類あはれみの事

一、兼て被仰出候通、生類あはれみの志、彌専要に可仕候。今度被仰出候意趣は、猪鹿あれ、田畠をそんさし。狼は人馬犬等をも損さし。あれ候時計鐵砲にて搏せ候様に被仰出候。然る處に萬一存たがひ、生類あはれみの志をわすれ、むざと打候者有之ば、急度曲事可申付事。

一、御領・私領にて猪鹿荒れ、田畠を損さし。或は狼あれ、人馬犬等損さし候節は、前々の通、随分追散し、夫にても止不申候はヾ、御領にては御代官・手代・役人、私領にては地頭より役人幷目附を申付、小給所にては其頭々へ相斷、役人を申付、右の者共に急度誓紙致させ、猪・鹿・狼あれ時計、日切定、鐵炮にて搏せ、其譯帳面に注置之、その支配支配へ急度可申達候。猪鹿荒れ不申節、紛敷殺生不仕候様に堅可申付候。若相背者有之ば早速申出候様に其所の百姓等に申付、亂れがましき儀候はヾ、訴人罷出候様に兼々可申付置候。自然隠置脇より相知候はヾ、當人は不及申、其處の御代官・地頭可爲越度事。

右の通堅相守可申者也。

巳六月  日

口上

猪・鹿・狼打候はヾ、其所に慥に埋置之、一切商賣食物に不仕様に可被申付候。右は獵師の外の事にて候。

この通達を見ますと、「生類憐れみの志」は、かねてから通達の通り、きわめて大切な事とした上で、田畑を荒らす猪であろうが、鹿であろうが、また人や馬、犬に危害を与える狼であろうとも、まず追い散らすことを行い、それでも解決しない場合は、公領であれば、代官・手代・役人に、また、私領であれば地頭から役人・目付に申し出た上で、その理由を書面に残し、誓約書を書かせ、時限を切って、鉄砲による退治を許可したようです。

もちろん猪・鹿などの獣害がないときには、むやみな殺生はしてはならないと書いてあります。

つまり今の法令と比べて大差が無いとさえ思えるのです。

もちろん「生類憐れみの志」は、徳川綱吉の「生類憐みの令」とは、その趣旨が異なると考えられますよね。

動物保護・愛護の観点から、責任を持って動物を飼うことが出来ないのであれば、飼わないほうが動物にとっても幸せですし、ましてや捨て犬、捨て猫をすること自体、言語道断と言わざるを得ません。

引き続き吉備群書集成からさらに引用することとしましょう。

十一、捨馬の事

捨馬の儀に付、段々被仰出處、頃日も捨馬仕候者有之候。急度御仕置可被仰付候得共、先此度は流罪に被仰付候。向後捨馬仕候者於有之は、可被行重科者也。

貞享四年(1687)十二月日

右被仰出の趣、堅可相守者也。

さすがに、現代では捨て馬という事態に遭遇することはありませんよね。

でも、わざわざ定めたということは、捨て馬が常態化していたのでしょうか。

とはいえ、流罪という大罪とまで定めてまで、その抑制を図らなければならなかったことに興味が持たれます。

※1 近世日本国民史. 第17 元禄時代 上巻 政治篇 徳富猪一郎 著 昭和11年

※2 吉備群書集成 吉備温故秘録(掲示)(巻之二十一)