今の世、連座の意味するものといえば、まず脳裡に浮かぶのが、1994年に公職選挙法が強化され、第二百五十一条「当選人の選挙犯罪による当選無効」には、いわゆる『拡大連座制』として、その連座対象者に秘書や組織的選挙運動管理者が加えられたことでしょうか。そして、以前は当選のみ無効とされましたが、この改正により、当該選挙に係る選挙区(選挙区がないときは、選挙の行われる区域)において行われる当該公職に係る選挙において、公職の候補者となり、又は公職の候補者であることが5年間出来ないなど、さらに、立候補者にとって厳しいものとなっています。
 
さて、封建の世である江戸時代では、もちろん連座の意味は異なっていました。
この犯罪に無関係であっても、犯人と血縁関係がある近親者について「縁坐」、主従などの血縁関係が無い者については「連坐」と定め、刑事責任を負わせることが行われていました。
もともと「縁坐」は、古代中国の唐律を起源とするもので、大宝律令等に定められるものの、鎌倉時代に至り、武家社会に移行したこともあり、その法令として貞永式目(御成敗式目)に表れることとなります。

第十條
一殺害刃傷罪科事、 付父子咎相互被應否事
右或依當坐之諍論、或依遊宴之酔狂、不應之外若犯殺害者、其身被行死罪、並被處流罪、雖被没収所帯、其父其子不相交者、互不可懸之、次刃傷科事、同可准之、
次或子或孫於殺害父祖之敵、父祖縦雖不相知、可被處其罪科、爲散父祖之憤、忽遂宿意之故也、次其子若欲奪人之所職、若爲取人之財寶、雖企殺害、其父不知之由、在状分明者、不可處縁坐

第十一条
一、依夫罪過、妻女所領沒收否事
右於謀叛殺害并山賊海賊夜討強盗等重科者、可懸夫咎也、但依當座之口論、若及刃傷殺害者、不可懸之

第十七条
一、同時合戰罪過父子各別事
右父者雖交京方、其子候關東、子者雖交京方、其父候關東之輩、賞罰已異、罪科何混、又西國住人等、雖爲父雖爲子、一人參京方者、住國之父子不可遁其咎、雖不同道、依令同心也、但行程境遙音信難通、共不知子細者、互難被處罪科歟

第十条には、「殺害や刃傷などの罪科のこと」として、口論や酔った勢いでの喧嘩であろうとも、相手を殺してしまった場合、殺人罪に問われることとなり、死罪もしくは流罪とした上で、その財産を没収するとあります。この条文で特記されていることが、子や孫、あるいは先祖の敵(かたき)として、殺人を犯した場合、犯人の父や祖父が、このことを知っていなくても同罪としていることでしょうか。この理由として「宿意」※1を挙げ、親族による争いが拡大することを避けようとしたことがうかがわれます。
また第十一条では、「夫の罪により妻の所領が没収されるかどうか」について定め、謀叛・殺害並びに山賊・海賊・夜討ち・強盗などの重罪の場合は、妻もその責任を免れることは出来ず、所領(財産)が没収されることとされますが、口論により意図もしない刃傷、殺人に及んだ場合は、没収されないと定めています。
そして第十七条では、「同じ合戦で父子が立場を変えて参戦したとき」について定めていますが、京方つまり朝廷側についた場合、父・子を問わず、罰せられるとし、特に西国武士については、父子の何れかが朝廷側であった場合、意を示し合わせたものと判断し、父子ともその罪を免れることは出来ないものの、父子が遠く離れ、音信不通と認められる時には、縁坐とはせず、朝廷側についたものを罰するとしています。

この第十一条、第十七条により、適用範囲を制限することにより、その濫用に歯止めをかける意図が見受けられますが、この貞永式目(御成敗式目)が、後々、武家社会の法令の規則となったことはいうまでもありません。
この縁坐については、江戸時代中期になるにおよび、時の八代将軍吉宗によって見直されることとなります。

刑罰は人の命にかゝる事なればとて殊に御心を用ひられ、(途中略)、野伏乞食の類は、まことに鰥寡孤獨にして告る處なきものなれば、上より定るまゝとて、わきて憐ませ玉ひ、つまびらかにさたし玉へり、さればこれより先、重罪を犯す者は一族までも連坐しけるが、此御時より刑科を省かせ玉ひ、親子の間といへども、親の罪に子は坐し、子の罪に親は坐せざる事となりしとなり、又古の贖法によりて過料といへることを新に定られ、また鞭刑をもはじめ玉へり、とりゞゝ罪の疑はしきは輕きにしたがはせ玉ふ御旨なるべし、常の御口すさみにも、をしへざる

民を罪するこそなげかはしけれと仰られしを、其頃近習にありし大島近江守以興(小納戸)しばしば承りしとて、後に人にもものがたりける、
(有徳院御實記附録)

とし、親子といえども、親の罪に子が坐すること、あるいは子の罪に親が坐することを止め、過料を新たに定めると同時に、鞭打ちによる身体罰を始めています。そして「罪の疑わしいものは、その罪を軽く判断する」として、今の「疑わしきは罰せず」に相通じるものが見て取れます。
 ただ御定書上巻第四十条を見る限り、手放しでは喜べる物ではありませんでした。

 重科人之倅親類等御仕置之儀ニ付御書付
主殺親殺又ハ各別重キ科之もの之子共ハ、至其節可伺候、死罪一通り之もの之子共
ハ構無之候、此外獄門磔ニ成候もの之子共、構無之候、

この享保六年(1721)に出された御書付では、その主人を殺害した者、親を殺害した者、あるいは特別な重罪を犯した者の子供は、その刑の適用について、上長による決裁を仰ぐこととした上で、死罪に処せられた者の子供にあっては、その罪を問わないこととしました。
ただし、この規定は例外が存在し、あくまで一般に適用するものではなく、百姓・町人その他、身分の軽い者に限られ、主人殺し・親殺しの子供にあっては、上長決裁となったことから、連坐が全面的な廃止とはなりませんでした。

 さて岡山藩における連坐についてみてみることとしましょう。

元禄十五年(1702)十二月十四日、大石内蔵助をはじめ四十七士報讐の忌を逐て後、細川越中守綱利・松平隠岐守定直・毛利甲斐守綱元・水野監物等の四候に預られ、同十六年(1703)二月四日、皆死を賜ふ。
(池田七郎兵衛、大石内蔵助が縁者なれば、将軍家の台命を憚り、同月十一月より閉門せしが、三月十一日御免。)
其内隠岐守の宅にて切腹せし千馬三郎兵衛に藤之丞とて一子あり。今年二歳なり。此藤之丞が母は備前津川門兵衛が(津川は、池田七郎兵衛が組士鐵砲。)むすめなり。門兵衛小禄にて家貧しく、家内多人なり。かねて千馬とゆかりあれば、過し元禄十三年(1700)娘を三郎兵衛が方にやり、相應の奉公あらば、取付せ度よし願ひけるに、御ゆるしあつて其年十二月四日に赤穂に行、則ち三郎兵衛が妻と成、三郎兵衛浪々の身となりし後も、猶付したがひ(妾とはいへども、三郎兵衛に本妻なかりしかば、妻同然なるべし。津川は、願は奉公と書せり。)去年一男子を生り。是藤之丞なり。三郎兵衛報仇の後、母子とも門兵衛が方に來り居る。今度三郎兵衛切腹せしかば、右の趣曹源公より、執政阿部豊後守の許へ御届ある。同九月二十八日豊後守の宅へ吉崎甚兵衛(留守居役なり。)を呼出され、千馬三郎兵衛が子十五歳に及候はゞ、遠島せらるゝ條台命なり。巨細の事保田越前守指圖にまかすべしとぞ申渡され、甚兵衛直に保田の方に行ければ、明日参るべしとの返答にて、あくる二十九日参ければ、千馬が子十五歳に及ばゞ、遠島に處せらるゝ由なり。其間は祖父津川門兵衛預り置き、十五歳に満たらば、注進あるべしとぞ書付を渡さる。

    申渡覺
    淺野内匠頭元家来千馬三郎兵衛倅 千馬藤之丞(未二歳)
父三郎兵衛儀主人の仇を報候と申立て、右傍輩共致徒黨、吉良上野介宅へ押込、飛道具持参、上野介を討候始末、公儀を不恐候段不届に付、切腹被仰付候。依之右倅遠島可申付の旨被渡候。但幼少に付、十五歳迄松平伊豫守家来津川門兵衛に預置候

    差上申證文の事
    淺野内匠頭元家来千馬三郎兵衛倅 千馬藤之丞(未二歳)
右三郎兵衛儀主人の仇を報と申立、右傍輩共致徒黨吉良上野介殿宅へ押込、上野介殿を討候始末、御公儀を不恐段不届に付、切腹被仰付候。依之右三郎兵衛倅藤之丞儀遠島被仰付候由奉畏候。併幼少に付、十五歳迄私に被成御預、慥に奉預候。十五歳満候はゞ保田越前守様御番所迄御届可申上候。尤相煩候か、病死仕候はゞ、是又御訴可申上候。爲後日仍如件。
元禄十六年未年十月二十三日
松平伊豫守家来 津川門兵衛
保田越前守様御番所

時は元禄十五年十二月十四日、大石内蔵助をはじめとした四十七士が、吉良上野介邸に討ち入り、吉良上野介を討ち果たし、翌年二月四日に、その全員が切腹することとなります。
この中でも大石内蔵助と縁者であった池田七郎兵衛は、閉門の後に、お役御免となっています。
さて四十七士の遺子であったため、縁坐に処せられた千馬藤之丞について見てみることとしましょう。
そして、四十七士の一人であった千馬三郎兵衛の妻“りえ”は、岡山藩士・津川門兵衛の娘であり、藤之丞という2才の男の子とともに、討ち入りの後、門兵衛の家に身を寄せていました。この千馬三郎兵衛が、切腹して果てた後、曹源公(池田綱政)によって、老中・阿部豊後守に届出られたため、江戸北町奉行・保田越前守によって遠島が申し渡されます。ただし藤之丞が幼少だったため、15歳の元服を待って、遠島に処するとし、その祖父・津川門兵衛預けとなりました。
なお寶永四年に津川門兵衛が病死し、その弟・尾關源五郎が、代わって藤之丞を預かることとなります。

この後、寶永六年(1709)に、千馬藤之丞・その母・尾關源五郎が、評定所に呼出されます。
大目付・宮部清四郎が読み渡したのは、赦免の宣言でした。

淺野内匠頭元家来千馬三郎兵衛倅千馬藤之丞儀、御預置被成、十五歳に成候はゞ遠島被仰付筈に有之候處、常憲院様御法事に付、遠島御赦免被成候。
右の段大久候加賀守殿被仰渡候由にて、町奉行松野壹岐守殿宅にて、安東平左衛門へ七月十六日被仰渡候間、右の趣難有可奉存候。

五代将軍徳川綱吉の死去に伴う赦免により、遠島が許された藤之丞は、この後、岡山藩士として召抱えられることとなります。
さて、千馬藤之丞の母の心境が、実に複雑なものであったことは否めません。
 
子を持ては正月の來る毎に生さきをたのしみ、人となさんとおもふは父母の心なるに、御預と成し後、月日立行、子の成長するを見る毎に、やがて遠き島へやる事よとおもひ一とせとせに過行にしたがひ、心の暗いやましけるとて、落涙せしが、ことしはからずも御ゆるしかふむりても、夢のこゝろして、我ながら猶うたがふ計なりとぞ。此の物語を今傳へ聞だに涙もよふす事なるを、況や其母におけるおや。

この千馬藤之丞の母が、人にいつも語ったとされるこの文からは、わが子の成長を楽しみにする父母の心の反面、15歳の元服をもって遠島と決まっているわが子の成長を見るのは辛かったことが、ありありと感じられます。そして赦免の許しがあったといえども、夢見心地でなお疑ってしまうとも。

縁坐、連坐という制度の下、幼児であっても、その罪を免れることは出来なかったことは、今では考えられないことでしょう。
千馬藤之丞の場合、もちろん2歳の子どもでしたし、本人ではなく父の罪に連帯して咎められることは、理不尽とさえ思えます。
そして当時の刑罰における遠島・追放については、その期間を定めないものであったため、実際に有期とするために「赦律之儀ハ元來御定書ニ可對品ニ可有之」とされ、慣例上、朝廷・幕府の吉凶(即位・改元・諒闇・将軍宣下・官位昇進・日光参詣・誕生・元服・将軍ならびにその子女の婚姻、薨去など)に赦免を行っていたようです。
もし、この赦免がなかったら、千馬藤之丞と、その母の人生は、まるで違ったものとなっていたことは間違いありません。
 

《参照》
・公職選挙法
昭和二十五年四月十五日法律第百号/最終改正:平成二八年一二月二日法律第九四号
・法制史の研究/三浦周行 著/岩波書店/1919
・吉備群書集成. 第拾輯/吉備群書集成刊行会 編/吉備群書集成刊行会/1931-1933
・日本法制史書目解題. 上/池辺義象 編/大鐙閣/大正7

※1 しゅくい【宿意】
① 前々から持ちつづけてきた考え。年来の希望や志。「宿意がかなう」
② かねてから抱いている恨み。宿怨(しゅくえん)。宿恨。「宿意を晴らす」
引用:出典・小学館デジタル大辞泉/コトバンク