「火事と喧嘩は江戸の華、そのまた火消しは江戸の華」という言葉があります。
地形、都市計画、家屋の構造の問題など、様々な要素が絡み合って、火事が頻雑に発生したと言われています。
岡山藩の江戸藩邸も、その難を避けることが出来なかったようで、吉備温故秘録※1には、「寛永十年(1663)江戸の邸御類燒」「明暦三年(1657)江戸御邸第燒失」「寛文元年(1661)正月御本屋敷燒失」「寛文八年(1668)江戸大火」「元禄十一年(1698)江戸邸燒失」など、何度も火事にあったと記されています。
この中でも、「明暦三年(1657)江戸御邸第燒失」は、「明暦の大火」であり、「明暦三年正月十八日、江戸大火ありて御邸第燒失す。此旨岡山に聞えければ、同二月二十二日岡山府下大小の商家、郡中の諸氏より、金銀・材木等を奉るべき由を願ひける」とあります。
明暦の大火は、俗に「振袖火事・丸山火事」とも呼ばれ、2日間に渡って江戸城天守閣を始め、市街地の大半を焼失する大規模な火災だったと言われます。
「振袖火事」のいわれについては、火災の原因が諸説ある中で良く知られたものですが、ここでの説明は省きます。
所変わって、岡山でも備前太鼓歌※2に「備前岡山 西大寺町 大火事に 今屋が火元で五十五軒」と唄われるくらいの大きな火事が起きていました。
岡山市史 第四※3 第十三章 災異 第二節 火災 を紐解くと、
天保三年(1834)十一月二十二日の『河本氏文書』に、「東中島町飴屋三十郎物置、今晩七ッ時過出火仕候」と。天保五年(1836)三月二十六日夜九ッ時過西大寺町通筋南側、今屋喜兵衛居宅物置より出火し、翌二十七日朝六ッ半時鎮火せり。世に所謂今屋の大火事、是にして『國富氏文書』に、
西大寺町今屋喜兵衛出火の節、類焼並半焼御取崩シ共左之通
一.丸焼三十五軒 半焼御取崩三軒 計三十八件
西大寺町
一.丸焼七軒 半焼御取崩十五軒 計二十二件
紙屋町
然るに『留帳』には、「類焼七十軒、西實寺一字、侍屋敷二軒」と、記載せり。俗謡「今屋が火元で五十五軒」とあるのは、蓋し句調に因りたるものならん」
<途中省略>
以上寛永十一年より安政三年に至る、約二百二十餘年間に亙る火災中、激甚なるは所謂大村火事・竹屋火事・番町火事等にして、此等は孰れも火を西に發して、東に延焼せり。蓋し岡山の地勢、其の西南に廣濶なる田野を控え、東に山を負ひたるを以って、風勢西より來るもの常に強烈に因れるがためならん。」とあります。
「今屋火事」は、備前藩・町方惣年寄役五人衆のうちの一人、国富家に伝わる古文書に記された丸焼60軒に対して、備前藩の公式文書では「類焼七十軒、西實寺一字、侍屋敷二軒」と記され、数字に乖離は見られるものの、備前太鼓歌の「備前岡山 西大寺町 大火事に 今屋が火元で五十五軒」は、単に音を合せるためのものと解釈できます。
この今屋という屋号を持つお店が何軒かあったとされていますが、「西大寺町通筋南側、今屋喜兵衛」は、何を商うお店だったのでしょう?
ただ同じ今屋という屋号のお店での惨事が起り、砂糖を商う今屋の蔵に逃げ込んだ女性・子どもの計5人が取り残されたまま、高熱で溶けた砂糖についた猛火から逃れることが出来ず、非業の最期を遂げました。
この砂糖蔵で起きた悲しい出来事は、人々の涙を誘い、「飴だき五人心中」と呼ばれ、後に鎮魂歌として、備前太鼓歌となったと言われます。
そして、この今屋が火元で起った大火事は、大村火事、番町火事、竹屋火事、紙屋町火事と並んで、岡山藩における五大火事の一つとされます。
いつの世になっても、火事という災害は、人々の財産はおろか、命をも奪うものであり、予防を心がけたいものですね。

※1吉備群書集成. 第拾輯 吉備群書集成刊行会 編(昭和7年2月発行)
※2備前太鼓歌(こちゃえ) 
備前岡山 西大寺町 大火事に
今屋が火元で五十五軒 コチャ
今屋が火元で五十五軒 コチャエ コチャエ
京橋へんの魚売り 鯛や鯛
はもや きすごや 蛤や コチャ
はもや きすごや 蛤や コチャエ コチャエ
お前は浜のお奉行様 潮風に
吹かれて お色が真っ黒け コチャ
吹かれて お色が真っ黒け コチャエ コチャエ
べっぴんさんに もろおた 手ぬぐいを 川端の
柳の小枝に ちょっとかけて コチャ
柳の小枝に ちょっとかけて コチャエ コチャエ
出石 三町 小畑町 裏は川
広瀬を上ぼす 高瀬舟 コチャ
広瀬を上ぼす 高瀬舟 コチャエ コチャエ
※3 岡山市史 岡山市役所編(昭和13年2月発行)