「五畿七道」と呼ばれる律令制下の地方行政区画を表す言葉があります。
この言葉の五畿は五畿内の略で,山城・大和・摂津・河内・和泉を示し、七道は東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道を示すものです。
今、ごく普通に使われる東海道・山陽道など、ルーツを辿れば実はとても由緒正しいものだったのです。
ちなみに律令制下のもとに定められたものですから、北海道はありません。
北海道の名付け親は、幕末の探検家として名高い松浦武四郎とされますが、北海道と正式に命名されたのは、明治2年(1869)の太政官布告によってですから、「五畿八道」でないこともうなずけます※1。

 

さて岡山には、古来より山陽道と呼ばれる官道が整備されました。
この山陽道について、吉備温故秘録(官道)から読み解くことにしましょう。
最古の山陽道は、もともと「延喜式」※2に定められ、約千年あまりの歴史を誇り、古官道「延喜式曰、備前國驛馬坂長・阿麿・高月各二十匹。津高十四匹。」とあります。
このように駅に置かれた数まで厳密に定めていますが、当時のルートは、坂長(現・三石)⇒阿麿(現・熊山町の一部)⇒高月(現・赤磐市馬屋)⇒津高(現・辛川付近)だったようです。また岡山市史(大正九年発行)には、「官道の變遷」として、「此の古官道は壽永、元暦の頃まで變ずることなく、平家物語、源平盛衰記等には、人馬此の古官道を往来して居たるの状を記せり。」とあります。
もちろん時代の変遷とともに、時の為政者の思惑も重なり、変更されたこともありました。例えば岡山城下発展のために、宇喜多秀家が山陽道の付け替えをしたことはその典型でしょうか。このことについても吉備温故秘録(官道)は以下のように記しています。
「西辛川 如是元龜・天正の此までには山陽の順路なりしが、宇喜多中納言秀家卿、岡山城の外郭を築き廣めて、領分備作の大身なるもの共を城下に群居せしめ、山下の繁盛を催し給ふ。時に宇喜多の老臣戸川肥後守・花房助兵衛・岡越前守・長船越中守評議して、秀家卿へ申けるは、岡山の繁盛を御好みあらば、西國の往来を替へ、城下を海道とせば、御當地次第に繁榮なるべしといふ。秀家甚だ悦び、これに従ひ、古津の驛より今の如く道路を替て、古道はなくなりしと見へたり。天正の末の事と思はるるなり。」

この後の官道の変遷については後日語ることにしましょう。

※1《参考》北海道庁HP 総務部/ 法務・法人局法制文書課 文書館「北海道の名前について」
※2《コトバンクより転載》平安時代の法令集。 50巻。三代式の一つ。延喜5 (905) 年,左大臣藤原忠平らが醍醐天皇の命令により編集。延長5 (927) 年完成。『弘仁式』『貞観式』をはじめ,古代政府の根本法令を補う形でその後発布された施行細則を集大成したもの。