国家の安全保障の観点から情報を収集する諜報活動が行われているのは、今も昔も変わらないと思います。
この見えざる諜報活動として、「真田太平記」などで、忍びが登場してきます。忍びの発祥については、諸説ありますので、興味のある方は調べるのも面白いかもしれません。
さて、備前岡山藩にも「忍び」といわれる人が存在していたようです。
吉備温故秘録 巻之十一の中に興味深い記載がありますので、ご紹介しましょう。

門田南忍び屋敷
古へは伊賀屋敷といふて、土倉氏下屋敷東の町あり。初は足軽屋敷とひとしく一組宛一円圍に居たりしと見ゆ。慶安年中(1648年~1651)岡山圖(図)に芳賀内蔵允預り、伊賀衆屋敷とありて、人別に姓名なし。又延實(1673~1681)の末の圖(図)には、姓名を記して、北より吉岡半内・寺岡又惣・一軒姓名不詳・今屋八郎左衛門・守田一左衛門、東側に五軒あり。西側には諸士の宅地三軒あり。今杉浦忠兵衛・笠原養牛迄は門田屋敷にて、この二軒より南を忍び屋敷といふ。この忍屋敷東に小路あり。この町に歩行屋一軒、丹羽廣人下屋敷あり。

忍び屋敷東西の町
南側に五軒あり。慶安年中岡山圖(図)に、番和泉預り、伊賀衆屋敷とあり。これにも姓名なし。又延實の末の圖(図)に姓名あり。北側は士屋敷なり。ここも初は足軽屋敷にてありしといふ。

忍び屋敷南北の町
これは東側に六軒あり。慶安年中岡山圖(図)に、草加兵部預り伊賀衆屋敷とあり。人別の姓名なし。正保二年(1646)六月、五人を召抱られ、兵部に預られ、又萬治二年(1659)五月十一日、今中七右衛門を召抱られ、これも兵部に預られ、以上六人これを新参といふ。延實の末の圖(図)に姓名あり。西側は残らず仲間の者居たり。(仲間小頭二人。仲間十人)。今は少々違ひあり。
この記載を見ると、門田屋敷周辺に伊賀忍者が召抱えられ、住んでいたこととなります。
また、名君池田光政公が、叔父であった池田忠雄の急逝により、寛永九年(1632)に鳥取から岡山に移封されて以降、明治4年(1871)の廃藩置県までの藩政資料及び池田侯爵家襲蔵の貴重な図書類「池田家文庫」が岡山大学に所蔵されていますが、「岡山大学 池田家文庫マイクロフィルム目録データベースシステム」で検索すると、撮要録巻十五に〔忍衆六人屋敷割当図〕《寛永10年~文政5年(1633~1822)》の記載も見受けられますから、正式に雇用されていたと考えられますよね。
この池田家文庫については、毎年秋の時期に岡山市デジタルミュージアムで池田家文庫絵図展が開催されています。
ご興味がある人は、ご覧になったらいかがでしょうか。