岡山で著名な画家といえば、室町時代に涙で鼠を描いた雪舟、そして近代に至っては、後楽園そばの出石町で生まれ、20世紀初頭にアメリカ合衆国を拠点に活動し、アメリカンドリームを掴み、没後60年余りを過ぎた2015年にはアメリカ・スミソニアン・アメリカン・アートミュージアムで回顧展が開催された国吉康雄(1889-1953)、大正ロマンを代表する美人画でおなじみの竹下夢二(1884-1934)などが脳裏に浮かびます。IMAG1202IMAG1200 IMAG1205

さて今回ご紹介する巨勢金岡(こせ の かなおか)は、平安初期の宮廷画家で巨勢派の始祖とされます。
巨勢金岡のお墓と伝えられる場所が岡山市東区にあり、地元では「かのうさま」と呼ばれて親しまれています。

巨勢金岡墓(伝承)通称かのうさま
もとは、金山の南麓(西大寺小学校校庭)に位置し、小さな築山にあって、くりやかしの木が周囲に植えてあった。戦後現在地に移った。
巨勢金岡は、平安時代の著名な画家で、平安京で活躍した。
祖父の野足(のたり)が備前国司として赴任していたので、当地にちなんで、金岡と命名したのかも知れない。
白色五輪塔で、いぼに効験があるといふので石を欠いだ跡がある。
通称かのうさまは、金岡様がなまったものであろう。
巨勢金岡筆洗の井戸
筆洗の井戸は、元西大寺高等女学校の校門の前にあったが墓の移転の時、現在地に移った。
※お墓にある説明看板より

では、巨勢金岡の逸話をいくつかご紹介することとしましょう。

「萩の戸の 馬にゆめよも あらむあれ くすしき筆に うつつまぞみる」
【歌の意に、萩の戸よ、金岡のかきたる馬の繪(絵)に、毎夜、外よ出であるけりといふ事あれど、其の、夢物語まてもあらんり、よし、其の夢よもせよ、金岡の筆の絶妙なるに、世まみる事なりとの意なり、萩の戸に禁中まあり、うつヽとに、夢よにあらぬ現在の時をいふ。】
詠史抄 ※1

「御室の馬」
仁和寺御堂と云ふは。寛平法皇(宇多)のご在所なり。其の御所に。金岡筆を揮ひて絵畫ける中に。殊に勝れたる馬形なむ侍るなる。其の馬。夜な夜なに放れて近邊の田を喰ひけり。何物のすると知れる者なくて過ぎ侍りける程に。件の馬の脚に土つきて。濡れ濡れとなること度々に及びける時。人々怪みて此の馬の所為にやとて。壁に書きたる馬の目を掘り抉りてけり。夫より眼なくなりて。田を喰ふこと留まりにけり。
古今著聞集 ※2

この「萩の戸」は、内裏清涼殿の一室の名前ですが、巨勢金岡が描いた馬の絵が、夜な夜な絵から抜け出し、萩の戸の萩の花を食べたという言い伝えに加えて、古今著聞集では、同様に巨勢金岡が描いた御室仁和寺にある馬の絵から、馬が抜け出し、毎晩近所の田圃の稲を食い荒らしたため、村人が怒って、馬の絵の両目を潰したところ、抜け出さなくなったと伝えています。
まさに海内無双ともいえる画家の存在と言っても過言ではないかも知れませんね。

ところで巨勢金岡の作品については、残念なことに現存しないとされ、「美術ハ国ノ精華ナリ」という有名な言葉を残した岡倉天心先生の「天心全集」※3の中に巨勢金岡について述べていますので、ご紹介することとしましょう。

☆日本美術史
【序論】
(省略)吾人は當時に生存せざりしと謂ども、三韓征伐、蒙古襲来の事蹟は、歴然として吾人思想の一部をなし、吉備公及び弘法大使が唐に入りて持来りたる文學技藝、家康綱吉が奨励せし近世の文學も亦、吾人知識の一部をなし、金岡雪舟の畫は吾人が作る原素となり、薬師寺の薬師、法隆寺の壁畫等に至りては、如何にして之を作りしや、其方法すらも知る能はざるも、所謂天平式なるものは、吾人の血中に存在す。
(以下省略)

【平安時代】
平安時代の初期は空海時代にして、桓武天皇の即位、即ち延暦元年より清和天皇の貞観元年に至る七八十年なり。空海が唐より将来せるもの漸く熟して、金岡時代を成す。(途中省略)
巨勢金岡。畫聖として有名なるにも拘はらず、閲年没年等も詳かならず。然れども、貞観元中の人なるは疑ふ可からず。(途中省略)
世間何れの大寺にも、金岡と稱するもの二三幅を有せざるはなし。然れども、其正に金岡として可なるものは一も認められず

日本美術院を創設し、明治時代の日本美術界の重鎮だった岡倉天心先生が、その論文の中で、「金岡雪舟の畫は吾人が作る原素」とまで述べていることは特筆されることでしょう。
また、巨勢金岡・雪舟共に岡山の生んだ偉大な芸術家ということも忘れてはいけませんよね。

※1 物集高見 著 広文庫刊行会 大正11
※2 日本史伝文選. 上巻収録 幸田露伴 著 大鐙閣
大正8-9
※3 天心全集 岡倉天心 著[他]  日本美術院 大正11