日本の昔話において、幽霊のお話は数多く存在します。
幽霊といえば、江戸中期~後期の画家・丸山応挙(1733~1795)の幽霊図が有名でしょうか。
今回、ご紹介する「水島灘の舟幽霊」のお話の起りは、今を遡ること830年余り前となります。
時は寿永二年(1183)、今の倉敷・水島・ 玉島は当時、水島灘の一部で浅瀬の広がる海であり、近世には海上交通の要衝となりますが、この海に浮かぶ島であった柏島と乙島の間の瀬戸(水島の渡)で,源平合戦の戦いの一つ水島合戦が繰り広げられることとなります。
この水島について玉島要覧※1は、舊蹟の中に「水島途」として、「源平盛衰記に載つてゐる源平両軍の海戦地水島途は柏島・乙島間の水道で今の玉島灣である」と記しています。
また玉島要覧には、「時は寿永二年(1183)閏十月一日(昭和十二年より七百五十四年前の事である。己に寒気も酷しく、風も強かった。源氏方では風浪の激しさに船を磯近く着け形勢観望の軆であつた。然るに一艘の平家の船が源氏の船をる方向に向つて漕出して来た。恐らく偵察船でもあつたらうか。源氏の方ではそれ敵船ぞと一斉に船を出し、平氏の牙城目がけて攻掛つた。ここに果然今の玉島灣頭より沖水島灘にかけ大激戦は展開された。しかして源氏は平氏の作戦に陥り、三方より挟撃され、荒い波風に揉まれて船はかち合ひ、乗つた兵は海に慣れない者ばかり故立つてをれず、船底に轉がり狼狽してゐる。平家方では此時とばかり源氏の船に飛込んで太刀長刀で斬りまくり、陸上からは弓の名人能登守教經を始め矢先を揃へて射るので溜つたものではない。矢田義淸は波に揺られて立つてをれず、舷に腰かけて戦つてゐたが平家の侍に首を斬られ、海野行廣は平家の侍と引組んで海に墜ちられたが是亦首を擧げられた。二人の大将とも此の始末で、水戦に習はぬ源氏方はさんざんの敗戦となり、近くの島へ逃延びた者も追つかけられて千餘人の戦死者を出した。僅かの時間に勝利を収めた平家のあぐる勝鬨は水島灘を壓するばかりであつた。
島の西方海岸方面では最も激戦があつたらしく當時海であつた矢出町のあたりからは鏃がよく出てゐたので矢出町と名をつけた。
今連島の矢柄(瀬越)の一本松の大木は首塚松とも呼び、源平水島合戦の時の屍を埋めた墓標だといひ傳へられ、其の付近から刀劔や甲冑の斷片を時々發掘する」とあります。
つまり、この水島灘では、源平水島合戦において、敗戦を喫した源氏を中心に1,000人あまりの鎧武者が亡くなっていることとなります。
この鎧武者の亡霊が、数百年後に舟幽霊として登場してきます。
瀬戸内海でも屈指の難所であり、小さな四つの無人島が浮かぶ水島灘に、夜に差し掛かった船に、海の底から「ひしゃくを貸せ…ひしゃくを貸せ…」という亡者の悲しい声が聞こえてきたそうです。
この言葉の通りに、ひしゃくを貸すと、たちまち、ひしゃくを持つ手が沢山出現し、船に水をかけ始め、船はまもなく水浸しになって、水島灘の藻屑となって消えることとなります。
この逸話から、舟幽霊から、ひしゃくを求められた場合、底を抜いたひしゃくを渡せば、水は汲めないことから、船は沈められないということになったそうです。
源平の水島合戦で、無念の死を遂げた鎧武者が、海水ではなく、(真)水を求めて、ひしゃくを貸せと亡霊となって現れたと言われ、これ以来、水島灘に浮かぶ島の一つを「杓島」と呼ぶようになったといわれます。
この水島の地名のいわれについて、玉島要覧には、備中府志に「天眞井といふ名水があるので水島と呼ぶ」とある、天眞井は恐らく此の噴水を指したもので、随つて水島とは乙島のことであらう。しかして此の名水は城にとつて命の泉で、地形のよかつたのは勿論であるが斯うした水が得られればこそ彼の丘上に城砦も築かれたものだらう。尚乙島には他に旭井夕日井と呼ぶ古井もあり良質の水が豊富に出てゐたから水島と呼ばれたものかもしれぬ。又水島は柏島・乙島両方を總稱してゐたのかその點研究の餘地がある。けれど水島合戦が乙島を中心とする此の地方で行はれたことは疑ふ餘地はない」とあります。
引用されている備中府志は、「古戦場備中府志」のことであり、元文二年(1737)年に編まれたものですが、大学利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館のマイクロ収集資料から閲覧が可能です。
この備中府志を読んでみると、畑山城のところで、「元歴二年(1185)三月尢四日於長門国赤間開壇浦海上源平相逢各隔?)三町艚向舟舩平家五百余艘分二手以山・・・」と
平家が壇ノ浦の戦いで滅びたことを記した件が見受けられます。源平合戦の中で平家が源氏を打ち負かしたのは、この水島合戦のみといわれていますから、誠に興味深いものがあります。
さて、今の時代、水島といえば、水島臨海工業地帯を脳裏に浮かべることとなりますが、元々、漁業と干拓農業を主とする一寒村に過ぎませんでした。
昭和18年に三菱重工業(株)の航空機製造工場が建設されたことに始まり、戦後にいたって、「農業県から工業県への脱皮を目指し、農業・工業・商業の各産業の均衡を保ちつつ工業を発展させることにより県民福祉の向上を図るという新しい構想の下に、この地域の開発を県勢振興の根幹事業」※2として、高梁川の河口に形成された三角州と沿岸一体の遠浅海面の埋立てを行うなど、全県的なプロジェクトとして大規模な開発が進められた結果、今では全国的にも押しも押されぬ有数の大臨海工業地帯となっています。
※1 玉島要覧 玉島町, 玉島商工会 編 昭12発行
※2 水島臨海工業地帯の現状 平成28年2月 岡山県産業労働部