時は寛永十九年(1642)に、水戸藩主・徳川光圀や会津藩主・保科正之と並び名君として称された備前岡山藩主・池田光政公が、十五ヶ条の武家作法を規定するとともに、質素倹約令を出しています。
光政公が家臣の贅沢華奢を戒めた言葉として、「因州にては儉なる故に少く得て足も候。當國にては奢り候故に多く得て不足、是以て家中儉約を用候へと申付候云々」と、国替えによって因幡鳥取藩主から備前岡山藩主となった時点で、当時の岡山の武士階級が贅沢に傾いていたと考えられます。
さて光政公の考えですが、「修身斉家」をその大本とし、自分の行いを修め正して、家庭をととのえ治めることは、質素倹約を行うことが、その第一義としています。
光政公が、儒教を藩是とし、陽明学者・熊沢蕃山を招聘したことなどが知られていますが、この「修身斉家」も儒者の自己修養と政治思想を説いた四書五経※1の四書のひとつ『大学』に見出すことが出来ます。

古之欲明明徳於天下者、先治其国。
(古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。)
欲治其国者、先齋其家。
(その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。)
欲齋其家者、先修其身。
(その身を修めんと欲する者は、まずその心を正す。)
欲修其身者、先正其心。
(その心を正さんと欲する者は、先ずその意を誠にす。)
欲正其心者、先誠其意。
(その意を誠にせんと欲する者は、まずその知を致す。)
欲誠其意者、先致其知。
(その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。)
致知在格物。
(知を致すは物に格るに在り。)

「修身斉家治国平天下」の意味は「天下を平らかに治めるには,まず自分のおこないを正しくし,次に家庭をととのえ,次に国を治めて次に天下を平らかにするような順序に従うべきである。儒教の基本的政治観」と解釈されます。※3

さて光政公の示した質素倹約とはどのようなものだったのでしょうか。
寛永十九年(1642)の質素倹約令から覗いてみることとしましょう。
(一)宴席に他國の魚類を用ふべからず、千石以上の藩士は、二汁、三菜、酒三献を以て限度とし、盛物の饗應を避くべし。
(慶安二年(1649)千石以下は一汁、二菜、酒三献に限ると定めている)
(二)新しく椀替へ出し申間敷事。
(三)畳替へすべからず。
(四)平素の衣類は、袖の上を出づべからず。家中妻女の衣類は、唐物金入の類、並に鹿の子縫箔停止たるべく、古綾、縮緬、羽二重は此限にあらず。
(五)祝言見舞等の為め、祝儀は不及申、樽肴以下の贈答無用たるへし。
(六)小身者鷹の飼養を禁ず。但し其の必要あるものは伺ひ上ぐべし。
(七)香典は言ふに及ばず。縁者親類の外、寺見舞等を廢すべし。
今の世の中では到底考えられないことですが、衣食住を中心に、結婚式等のご祝儀、お葬式のお香典に至るまで、細かく定められています。
もちろん衣食住以外の武士としての本分にしても、吉備温故秘録※2には、寛永十一年(1634)五月朔日付の法度として、
一、鐵門より内、年寄中は、小姓二人、草履取一人召連、登城可仕事。
一、惣侍中は、若黨一人・草履取一人、召連可申候。雨降候時分、からかさ持一人、召加可申事。
一、用所申付者共、隨役於理、供の下人少々かさみ可申事。
一、下々猥に不顧儀式、直の侍中へ對し、慮外不仕様、其主人より堅可申付事。
附、城中にて高聲・高腰掛・立ちすがり居申間敷事。
一、横目の者申渡法度、両度迄は相改、其上主人にも相居、無承引輩有之ば、可致言上事。右の條々堅固に可相守、若違背於有之者、急度可申付者也。
と定め、格式に応じたお供の数から、城中における大声、藩士の監視役であった目付の配
下「横目」にいたるまで、更には「先年従公儀被仰出御法度條々」には、幕府から定めとし
て、髪型から、あごひげ、長刀の長さ(二尺八寸以上)などに至るまで、細かな制約を課さ
れていました。
もちろん、これ以降も様々な法令が出されていますが、寛文八年(1668)には、料理について興味深い法令が見られます。
「料理の覺」
一、一汁・二菜の内、一色精進物。
一、菜盛合仕間敷事。
一、酒三返、盃事も三獻の内にて仕廻可申事。
一.食後菓子無用の事。
「料理に出し申間敷肴覺」
一、鴨の類・青鷺・雲雀・鶉・蚫・鴫・鷭・鱒・生鱘・鱒・鯉・鱸・鱈・鮭生。
右の外にても、高直の肴不可出。縦囉候物たりとも、此書付の肴は可為無用。
領民(町民)に対しては、「食膳は一汁一菜」とされたことから、豊かな町人が、お魚・お野菜などを混ぜ合わせれば、ひとつのメニュー(一菜)として、お吸い物を添えたのが「岡山ばらずし」始まりと以前書きましたが、武士に対しては、「一汁二菜(二菜のうちひとつは精進もの)と定めていますから、特権階級ならではのことでしょうか。
また料理の素材として使ってはいけない鳥・魚が定められていますが、自然保護の目的ではなく、あくまで贅沢素材の使用を禁じたものでしょうか。
ところで日本料理には「水物」といわれる果物または寒天を使った流しものがありますが、食事の後で、何かデザート的な物を食べたいという欲求は今も昔も変わらないようです。
とは言え、質素倹約の号令の下、贅沢な食事はさておき、料理の数・素材まで縛られるのは悲しいことですよね。
戦後の食糧不足の時代を乗り越え、飽食の時代と言われて長い時間が経ちましたが、ふと食事を見直す機会なのかもしれません。
ふと1975年にアメリカ上院栄養問題特別委員会によってまとめられた「マクガバンレポート」のことを思い出しました。
この「マクガバンレポート」が、全米はもちろんのこと、世界中に日本食ブームの火付け役となったことは有名ですが、その中でも特筆されることは、最も理想的な食事として、日本人が元禄以前に食べていた食事であると明記されたことでしょうか。
なぜ元禄時代(1688~1704)を境としたのかは大きな理由があります。なぜならば「生類憐れみの令」で悪名高き五代将軍徳川綱吉の治世は、幕藩体制が家康,秀忠,家光の3代の間にその基礎を確立し、綱吉の時代に最盛期となり、町民文化も絹の着物、元禄袖など豪華絢爛を究めることとなり、食事も白米のご飯中心に贅沢なものに変わることとなりました。この元禄以前の食事とは、精白しない穀類を主食とし、季節の野菜や魚介類といった内容でしたから、まさに理にかなったものだったのでしょう。
今の世の中、玄米食、雑穀米なども見受けられますが、その値段の高さもあり、健康志向ブームというものの、なかなか普及していないのも現実でしょうか。
自分自身の健康を見直すためにも食生活のチェックを行ってみてはいかがでしょうか。

※1 四書五経とは儒教の教典で重要な9種の書物を指す。四書は、「大学」「中庸」「論語」「孟子」、五経は、「詩経」「書経」「礼記」「易経」「春秋」。
※2 昭和七年発行 吉備群書集成/本文記載の法度は同書から引用した。
※3 大辞林 第三版 (三省堂)