岡山は、古くから吉備文化圏を始め、古の文化・歴史を育んできました。
今回は、何回かに分けて、古典の中に見ることが出来る地名をご紹介してゆこうと思います。
今日は、万葉集の中にも、その名が登場する「牛窓」です。
牛窓は、「日本のエーゲ海」と呼ばれ、温暖な瀬戸内式気候のもと、多くの観光客でにぎわいますが、万葉の時代だけではなく、江戸時代には、参勤交代や朝鮮通信使の寄港地として栄え、「牛窓千軒」と呼ばれるくらい繁栄していたといわれます。
では、作者不明(柿本朝臣人麻呂の作とも)といわれる歌からご紹介しましょう。
牛窓之 浪乃塩左猪 嶋響 所依之君 不相鴨将有
牛窓の波の潮騒 島響(しまとよ)み 寄せてし君に 逢はずかもあらむ
万葉集・巻十一(成立759 年以前)その七
噂を立てられた相手に逢いたい気持ちがせつなく歌われたものですが、牛窓の潮騒が島に響くとの表現は、とてもロマンティックではないでしょうか。
この他にも、古典の中には牛窓の地名が数多く見受けられます。
さて、万葉の時代には既に牛窓の地名があったことは、このことでも明らかですが、そのいわれについて紐解くことにしましょう。
まず林羅山著の「本朝神社考」※1から、そのいわれを見出すことが出来ます。
牛窓
神功皇后舟。過備前海上時有大牛出欲覆舟。住吉明神化老翁以其角投倒之故名其處曰牛轉。今云牛窓訛也。其牛蓋塵輪鬼之所化也。塵輪有八頭嘗駕黒雲来。侵仲哀帝。帝射之。身首爲二落死。塵輪亦帝射。帝遂崩。
【神功皇后の船備前の海上を過ぐ。時に大牛あり。出でて舟を覆さんと欲す。住吉明神老翁と化して、其の角を以て投げ倒す、故に其處を名づけて牛轉(転)といふ。今牛窓といふは訛なり。其の牛は蓋し塵輪鬼(ちんりんき)の化する所なり。塵輪八の頭(こうべ)あり。嘗て黒雲に駕(の)り来つて仲哀帝を侵す。帝之を射る、身首二と爲つて落死す。】
牛窓の地名のいわれは、忠哀天皇の御世、熊襲が反乱を起こし、忠哀天皇が神功皇后とともに平定に向いますが、熊襲に味方する新羅王が塵輪鬼(ちんりんき)という8つの頭を持った大きな牛の化け物を遣わし、神功皇后が乗った舟が牛窓の沖に向っていた時、舟を転覆させようとします。神に祈りますと、住吉明神が翁の姿でお出ましになり、角を掴んで投げ飛ばしたことから、牛転(うしまろび)と呼ばれるようになり、後に訛って牛窓になったとされます。
また、牛轉(転)以外の呼び名をご紹介しましょう。
昭和八年(1933)に当時の朝鮮総督府によって発行された「海東諸國紀」※2には、「郡八水田一萬三千二百十町二段 貞吉 丁亥年※3遣使来賀観音現像書称備前州卯島津代官藤原貞吉 廣家 戊子年遣使来賀観音現像書称備前州小島津代官藤原廣家」の記載が見られます。
この卯島津が牛窓と考えられています。
ところで神功皇后と岡山について、岡山市史「第六章 神功皇后の新羅征伐と岡山」に、このような記載があります。
「仲哀天皇、熊襲征伐の軍中に崩御し給ふや。神功皇后、武内宿禰と謀り、先づ吉備鴨別をして留て熊襲を平定せしめ。御親ら男子の装を為して軍を統制し給ひ。弟彦王等と舟師を率ゐて海を渡りて威風堂々、新羅に向ひ給へり。新羅王は之を見て大に恐れ一兵を交へずして直に出で降れり。此役吉備出身の鴨別命、弟彦王の二人参加して大功を立てたり(以下省略)」
この熊襲は、昭和14年(1940)4月発行の「鹿児島県史」第1巻 第二編「國造時代」第一章「熊襲の服屬(属)」に「熊襲は、豊後・肥前の両國風土記及び釋日本記 巻十引用の肥後國風土記等の所々に球磨囎唹・球磨贈於・玖麿囎唹等と記され、又天皇親征の記事中にも、襲國と熊國との事が見えるのである。故に熊即ち球磨は肥後國球麻郡の地方であり、襲即ち囎唹は大隅國囎唹郡の邉(辺)で、熊襲とは此の両地方に亘る山間に播据していたものと考へられるのである」と記されています。
つまり熊本から鹿児島にわたって大和朝廷と対立していた熊襲という部族がいたということが書かれてあります。この熊襲については、本論から外れることとなりますので、この辺で終わりたいと思います。
※1 本朝神社考 六巻. [三] 林道春(林羅山, 1583-1657)
※2 申叔舟 [撰](1417-1475)
※3 丁亥(ひのとい)年(應仁丁亥元年)1467年
※参考 昭和15年(1940)10月発行 邑久郡教育會國民科研究部「邑久郡卿土之讀物」「牛窓町之巻」(非売品)