芋墓というと多分ご存じない人のほうが多いのではないのでしょうか?
今回、ご案内する「芋墓」は、総高5.6mの犬島産花崗岩で出来た巨大な無縫塔で、池田家二代目藩主・忠雄(ただかつ)のお墓のことです。
この芋墓は、清泰院※1にありますが、忠雄の遺言については、有名な「鍵屋の辻の決闘」※2の発端となりました。
忠雄は、宇喜多秀家の築いた岡山城の第四代目の城主であり、岡山城を本格的に完成させています。その中でも、月見櫓は、創建当時※3の姿を今に伝えていますが、その名前としての使い方以外に、中段(表書院)の防御、武器貯蔵などが本来の目的であったとされます。
さて、「鍵屋の辻の決闘」の発端ですが、寛永7年(1630)11月、池田忠雄が寵愛する小姓・渡辺源太夫に藩士・河合又五郎が横恋慕し、拒絶されたことに逆上して源太夫を殺害してしまいます。又五郎は脱藩し、江戸に逃走を図り、旗本・安藤四郎右衛門重元にかくまわれます。
寵愛する源太夫を殺害されたことに激怒した忠雄は、幕府に又五郎の引渡しを要求しますが、安藤は旗本仲間ともに申し入れを拒否し、「(外様)大名」対「(直参)旗本」の面子争いに発展します。これを喧嘩両成敗で事を収めようとした幕府は、旗本たちの謹慎と又五郎の江戸追放を決定します。
この後、旗本諸法度が定められた寛永9年(1632)に、忠雄は江戸藩邸において疱瘡(天然痘)で亡くなりますが、その死の際に又五郎を討つよう遺言したといいます。
ふと考えてみれば、古代から男色というものは存在していました。とは言え仇討ちの本懐を遂げるということは、本来、尊属が殺傷された場合と理解していましたので、源太夫の兄・渡辺数馬が弟の仇討ちをすることは極めて異例なこととも思えます。
もちろん忠雄の遺言に上意討ちの内意が示されたことにより、数馬は従わざるを得なかったのでしょう。
「鍵屋の辻の決闘」については、講談でも有名ですし、荒木又衛門をモチーフとした小説等でもご存知の方が多くいらっしゃいますので、無事に本懐を遂げたことだけ記しておきます。
ところで忠雄の嗣子は幼少、僅か3歳だったこともあり、山陽道の要衝である岡山を治めることは困難と判断した幕府は、鳥取池田家との国替えを命じます。
この国替えにより江戸時代の初期、稀代の名君といわれた池田光政が岡山に移封されることとなったのは、宇喜多氏以降の岡山にとって幸運なことだったのでしょう。
池田光政の質素倹約にまつわる町民たちのささやかな抵抗、今でも岡山名物として名高い「ばらずし」については「光政とばらずし」をご参照ください。
話を忠雄の死に戻します。
忠雄は江戸藩邸において疱瘡(天然痘)で亡くなったとされますが、「大名」対「旗本」の面子争いであったことから、「毒殺」されたという説も存在しました。
1964年発行の「池田忠雄墓所調査報告書」※4に、「第三節 水銀」、「第八章 忠雄骨よりの毒物予備試験および本試験」「第十八図版 忠雄墓石室内の水銀と屍臘化した色々な骨等」の記載が見られますが、当時の毒殺の主流は、俗に「石見銀山鼠獲り」と言われる砒素となりますが、砒素についての記載が見当たりません。江戸藩邸から岡山まで遺体を運ぶための防腐剤として水銀が使われたものと考えられています。
また、無事に本懐を遂げさせた立役者であった荒木又衛門も鳥取池田藩に引き取られることとなりますが、鳥取到着後僅か15日後に41歳で急死したとされます。ただあくまで表向きで、河合家に対する手前、実際は城内奥に留まっていた生存隠匿説、河合家による暗殺(毒殺)だったという説など様々ありますが、真相は闇の中に葬られています。
※1 臨済宗 竜峰山 清泰院 岡山藩主池田忠継、池田忠雄の菩提寺 岡山市南区浦安本町28
もともとの名前は龍峰寺でしたが、清泰院と名を改められました。昭和38年、新京橋を架設するため現在の場所に移転しています。
※2 寛永11年(1634)、渡辺数馬が義兄荒木又右衛門の助太刀を得て、弟源太夫を殺した河合又五郎に仇討ちを成し遂げたところで、日本三大仇討の1つ《伊賀越仇討》の舞台となりました。あと二つは《曾我兄弟の仇討》《忠臣蔵》
※3元和・寛永年間(1615~1632) 国指定重要文化財
※4岡山市教育委員会