岡山市内で桜の名所といえば、後楽園沿いを脳裏に思い浮かべる方が多いと思いますが、岡山駅から車で北に15分ほど走った三野公園も約800本のソメイヨシノが植えられ、岡山市内を一望しながら満開の桜を楽しむことが出来ます。
さて、「三野」について語ることにしましょう。
岡山藩で代々番頭を世襲した上級士族・土肥家の土肥経平(どひつねひら)が記した備前名所記※1にはこのような記述があります。
「蓑山 御野郡」
歌枕の類みな美濃國みのを山に之を混じ出したるは誤なり。みの山といふは備前國なり。體(体)源抄※2催馬楽(さいばら)の事を書しには、備前國と出したり。今岡山の城の北にある山なり。
催馬楽 蓑山
みの山にしヾにおひたる玉かしはとよのあかりにあふかたのしさやあふかたのしさや
(以下略)
「蓑里 御野郡」
近代の歌枕の類に國不知とあり。即備前國御野郡三野村なり。
堀川百首 五月雨にぬるゝもしらぬみの里の門田の早苗いそきとる也
歌枕は、今は古の人が歌の中に詠んだ名所旧跡とされますが、その昔は枕詞などを記した本を指しました。
蓑里の場合、「國知れず」としたものが、実は岡山の三野だったということになります。
さて、蓑といえば思い出されるのが、太田道灌の古事でしょうか。
この古事は湯浅常山の「常山紀談」※3に「三十六 太田持資(もちすけ)哥道(かどう)を志す事」などにも記され、有名なお話ですが、簡単にご紹介します。
太田道灌が、鷹狩りの折に雨に降られて、小屋で蓑を借りようとしたところ、若い女性が無言のまま山吹の花一枝を差し出しました。道灌はその意味が分からず、花を所望したのではないと怒り心頭で帰ります。
これを聞いた人から、山吹には
古歌「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」(後拾遺和歌集/兼明親王)
の意味があると聞かされ、自分の無学を恥じたというお話です。この古歌は、「七重八重に花は咲くけれども実の一つさえならない山吹と、お貸しできる蓑が一つさえない」ということをかけたものですが、実に奥深いものですよね。
さらに東備郡村誌※4から紐解いてみることにみましょう。
[巻之一]總説
(省略)按に、吉備國を日本紀の釋に寸簸(きび)に作る。然れば吉備は寸簸の轉なるべし。寸簸とは當國に名高き蓑山より起れるか。蓑山とは素盞鳴尊(スサノヲ、スサノオノミコト)當國氷の川上にて八跂の大蛇を斬り給ひ(このことを當國とすること日本紀一書の説、又忌部正通の説等なり。石上神社の考に詳にす。合せ見るべし)又吉備の逆賊を征して其功を終へ、卑賊(賤力)の姿して敵を欺くの計略に召し給ふ蓑笠を脱捨て、其蓑を納め給ふ山と云へり(寸簸の地理にみえたり。其山は今の御野郡三野村山これ也。省略)故に其郡縣村里共に皆な蓑と稱(称)せしに、蓑の字を訓を以て轉し蓑の山に作り、郡縣村里、其地名亦皆簸に作りしかば、國號を名づくるにも、亦其郡縣村里の名にもとづき、寸簸國と名づけたるなるべし、きびとよむはきみの相通なり。
簸山簸里簸郷、中古亦轉して箕に作るは簸と同義同訓なれば也。今又再轉して三野に作る。三野郡・三野郷・三野村・三野山村之也。又三野郡は、文武帝慶運の頃より轉じて御野に作れり。(以下略)
この書では、蓑山とはスサノオノミコトが、八岐大蛇(やまたのおろち)を切り捨て、また吉備の逆賊を平定し、敵を欺くために姿を変えるために使った蓑笠を脱ぎ捨てた際に、蓑を埋めた場所が蓑山であり、これによって地名が三野・蓑などと言われたと書かれてあります。
また文武天皇の在位期間が697~707年であったことからも、三野の地名の起こりが実に古いものと考えられますよね。
※1 吉備群書集成 第壹輯(吉備群書集成刊行会 編)
※2 体源鈔. 第1-3 豊原統秋 [著][他] 日本古典全集刊行会
※3 常山紀談 湯浅常山 著[他] 鶴声社
※4 吉備群書集成. 第貳輯(吉備群書集成刊行会 編)