自治体が行う住居表示・区画整理事業などで、いままで使われていた馴染み深い町名が、新しいものに変わり、それに伴い、町名に纏わる歴史も忘れ去られるような気がします。
たとえば、テレビせとうちのある柳町二丁目は、昭和39年まで下西川町と呼ばれていましたし、桶屋町・柿屋町・紙屋町・瓦町・紺屋町・大工町など、当時の商工業を連想させる町名や、武家屋敷のあった一番町・二番町・三番町・四番町・五番町・六番町・七番町・八番町(現在の番町一丁目, 番町二丁目, 広瀬町、南方一丁目など)など、町名で歴史を想像するのも面白いかもしれません。IMAG1069

さて、宇喜多直家の岡山開府の後、その子・秀家によって、城下町としての岡山の基盤が築かれました。
秀家は天正十九年(1591)、豊臣秀吉の指示により、岡山城本丸を石山から岡山へ移し、大手門を付け替えるなど、お城の大改修と経済発展のため城下町建設に乗り出します。
交通網の整備も同時に行い、お城から離れて存在した山陽道を旭川へ新たに架橋した小橋・中橋・京橋を通り、城下町から万成を経て西辛川に向う城下町通過ルートに変更し、これにより旭川東側への城下町の発展を見ることとなります。

このことについて「備陽記、巻一、云」※には、「天正ノ始宇喜多中納言秀家、岡山城郭ヲ守成シテ領分備前美作両國ノ大身成侍共ヲ城下ニ可令群居トシキリニ城下ノ繁盛ヲ願フ然ルニ・・・(途中省略)岡山城下ノ繁盛ヲ御好ミアラバ西國ノ往還ヲ替ヘ城下ヲ海道トセバ地富ミ繁盛スベシト申ニヨリ甚是ヲ悦テ山陽ノ道路ニ城下ヲ通シ萬成山ヲ越て西辛川村へ通シケル於今如此旅人古道ヲハ不通城下ヲ往還トセリ」とあり、戸川肥後守ら重臣の進言を受けて、城下町繁栄のために道路の改修にあたったことが書かれてあります。
(※このルートについては諸説があります。藤井(以西)宍甘鼻⇒(南西ルート)⇒岡山⇒万成山⇒西辛川のうち岡山城下内のルートについて、①《岡山城誌》古京町⇒内山下(榎の馬場)⇒中之町・下之町の間⇒中山下⇒博労町(山崎町・丸亀町)⇒(西へ)⇒万成山⇒辛川②《池田家統治時代》古京町⇒小橋町・東西両中島⇒橋本町⇒西大寺町⇒榮町⇒下之町⇒中之町⇒上之町⇒中山下⇒山崎町⇒丸亀町⇒万成口)
この岡山城下ルートの町名には、今でも上之町商店街(アムスメール上之町)、中之町商店街、下之町商店街、栄町商店街、紙屋町商店街など、商店街の名前として、その名を残すものも見受けられます。

また「西大寺町」については、「備陽記、巻一、云」※に、「一、今城下町之名ノ内ニ昔・宇喜多秀家岡山城外を拵、備前美作両州之大身之侍共ヲ呼出シ屋敷ニ渡ス時ノ在中ヨリ出テ町作ル其出タル在所ノ名則呼テ町ノ名トス。縦ヘハ西大寺ヨリ出ルヲ西大寺町ト名ケ片上ヨリ出ルラハ片上町トナル由」とありますから、その言われは、440年以上も前に遡り、宇喜多秀家の重臣で西大寺が郷里の人達の屋敷があったこと起因するとすれば、すごく由緒正しき地名と考えられますよね。
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そして城下町建設の時に宇喜多氏の発祥地(邑久町豊原)近くの備前領内・西大寺・備前福岡などから、多くの商人・職人を呼び寄せ、山陽道沿いに町人町を形成し、経済発展の基盤としましたが、これが今の表町商店街の始まりとされます。
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ところで江戸時代に大名、宮家、公家、幕府役人などを対象として、諸街道の宿場に設けられた本陣としては、旧山陽道の第18番目の宿場町として栄えた矢掛にある本陣(石井家住宅)、脇本陣(高草家住宅)が当時の面影を今に伝え、重要文化財として指定されていますが、吉備温故秘録 巻之十六 官道(上)(下)を見ると、「岡山榮町 本陣西側にあり、町の長六十六間、下之町(間數百十間)。本陣西側にあり」と書かれてあります。また嘉永年中の記録には、下之町本陣福岡屋吉郎兵衛、榮町本陣田原屋興右衛門、西大寺町本陣小西屋良介の記載が見られるとのことですから、当時、岡山市中心部の西大寺町付近に江戸時代、街道の宿駅で、大名・公家・幕府役人などの身分が高い人が宿泊施設としての本陣があったことがうかがい知れます。栄町・下之町(現在の表町二丁目)の地名は住居表示からは無くなったものの、商店街の名前で残っていることは歴史を探索する上でも貴重なものですよね。

ところで「備前軍記 第五、岡山城改て築添る事條、云」※には、「往還の假(仮)橋も改めて以前よりは三町(1町は109.09091メートル)許下に小島の河中に二つあるにたよりて三つの大橋を作りかけ洪水の時も旅人のわつらひなく通行せさしむ(以前かけ橋のありし所は今古京町といふ、是古京橋町の略語なり)とあります。
名門・岡山朝日高校周辺は、今の時代、古京町と呼ばれますが、もともと古京橋町だったようですね。
この略称となったのは、いつの頃からか、定かではありませんが、歴史を感じさせるものがあります。
また「備陽記、巻一、云」※には、「城ノ北ニ石關ト云ハ宇喜多秀家ノ時分大石ヲ以テ石ノ堤ヲ築キ朝川ヲ二ツニ流シテ城ノ東西ニ流レシト云以石築切タル故石關ト云由」とあります。
石関町の由来も、宇喜多秀家の時代、石堤を築いて、旭川の流路を変え、お城を挟んで流れるようにしたことに由来しているのですね。
元来、町名は居住する商人の出身地名、職人の職種から名づけることが多いとされますが、歴史を紐解いてゆくと、さまざまな背景が見えてきて実に興味深いものがあります。
今後、何回かに分けて岡山の地名を見ていきましょう。

※岡山市史(昭和11年発行)に収録

※画像:上/備前福岡 中・ 下/矢掛本陣・脇本陣