岡山といえば、桃太郎伝説に代表される鬼退治が有名です。

吉備津神社ところで、岡山市の夏の風物詩のひとつとして、温羅伝説をもとに1994年に始まった市民参加型の「うらじゃ」が挙げられます。
温羅伝説は、吉備津神社に伝わる「吉備津宮縁起」として伝えられていますが、鬼は本当に存在したのか?史実は?古代史が好きな人にとって興味深いものがあると思います。

鬼城山(鬼ノ城)
もちろん百済から渡来した一族、吉備の国の一族、大和朝廷の3大勢力の争いが背景にあるのかもしれません。
さて、このお話には、第七代孝靈天皇皇子・吉備津彦命を桃太郎、温羅を鬼神とし、最後には温羅が亡ぼされ、吉備津彦神社の鳴釜神事の由来も語られています。概略※1をお話しますと、百済から渡来した温羅という鬼神(なんと身長一丈四尺/約4.24m)が、吉備の国・新山に鬼ノ城を構えて、立て籠もり、性格はきわめて凶暴で、近隣の婦女子を連れ去り、家畜を殺したり、西国から都に貢物を奪い取ったりと人々は恐怖におののいていました。
この時、大和朝廷から四道将軍の一人として、温羅征伐に吉備津彦命が遣わされます。
山城の鬼ノ城から岩を投げる温羅に対し、吉備津彦命は吉備の中山に陣を設け、矢で応戦するものの、矢と岩が空中でぶつかり膠着状態に陥ります。この時、牧童に姿を変えて現れた住吉明神の「二筋の矢を番(つが)えてお打ちになれば良いでしょう。そうすると一筋は食い合い、一筋は鬼の胸に当たりましょう」のご託宣により、同時に2本の矢を射ることで、1本が温羅の胸に命中することとなります。
神通力が無くなった温羅は、妖術をもってその姿を鯉に変えましたが、これに対して吉備津彦命は鵜に姿を変え、温羅を捕らえて、征伐することとなります。
吉備津彦命に命を絶たれ、頭を串に刺して晒された温羅の首は、何年経っても吼えることを止めず、山河に反響するほどの大声だったと言います。そして、この首を晒した場所が首部(現在:岡山市北区首部)の地名の由来であったと言われ、この地にある白山神社の境内に「温羅の首塚」が存在します。
さて、吼え止まないことから、吉備津彦命は狗飼武に命じて温羅の首を犬に食べさせますが、肉の部分を食い尽くして髑髏となつても変わることはありませんでした。

GAZOU3 (1) 吉備津神社
困り果てていたとある夜に、温羅が吉備津彦命の夢枕に立ち、「わが食事を炊く竈の底に埋めよ」と言うので、竃の下を八尺掘って温羅の首を埋め、温羅が生前寵愛していた阿曾に朝暮に火を炊かせたところ、御釜を焚けば共鳴動により吉凶を占うことが出来ることとなったそうです。
さて一言に鬼と言えば怖いもの、悪いものというイメージさえ与えてしまいますが、人が亡くなることを中国の慣用句を用いて「鬼籍※2に入(い)る」と言うことがありますから、一概には悪いものを指す言葉とは考えられませんよね。
ちなみに中国では人が死ぬと魂が残って鬼になるという迷信から、鬼は幽霊・亡霊ということになります。
また時代を遡って貴族文化の栄えた平安時代、陰陽師・賀茂忠行・賀茂保憲父子そしてその弟子であった安倍晴明などが活躍した時代でも、「百鬼夜行」などの言葉は見受けられるものの、その実体は見受けられないように思えます。
また平安時代の末期に書かれたとされる『今昔物語集』には、怪異現象が多く書かれていますが、例えば巻第二十七第二十二「猟師の母、鬼と成りて子をくらはむとする語」では、「親が年をとってはなはだしく老いてしまうと、きっと鬼になって、このように我が子をも喰おうとするのである」とあります。
これは元から鬼が存在するのではなく、人の心がその持ちようで鬼に変化させるということなのでしょうか。
確かに今でも、かわいそうだと思いながら、厳しい態度をとることを「心を鬼にして」と言いますが、鬼は人の心の中に生まれる可能性を秘めているものかも知れません。

※1参考:新輯岡山県伝説読本(昭和9年) 
※2地獄の閻魔大王の手元にある閻魔帳