今回は、宇喜多氏と岡山についてのお話です。
宇喜多家に関する史料は少ないといわれ、土肥経平の戦記物語『備前軍記』(『吉備群書集成』第参輯[大11・吉備群書集成刊行会]所収)※1、そしてこの『備前軍記』を参考としたいわゆる軍記ものを見つけることが出来ます。
土肥経平は、解題の中で、「此書は、嘉吉元年(1441年)赤松氏の滅亡より筆を起し、慶長八年(1603年)池田氏の入部に至るまで、凡百六十年間に起こりたる、備前國内に於ける戰争の事蹟を記せるものにして、赤松・山名・浦上・松田・宇喜多諸氏の興亡より小早川氏の治世に至るまで、凡そ備前國内に於ける争戰の事蹟は、これを記さざるものなく・・・」と述べていますので、大河ドラマ的な読み物として良いかもしれません。
この他、参考になるのが、『岡山市史』第二巻(岡山市編・刊、昭和11年発行・昭50復刊)※2です。
※1・2 この二つの文献は、岡山県立図書館で閲覧出来ますし、国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧可能ですので、興味がある人はご覧になられたらいかがでしょうか。
では宇喜多直家について紐解くとしましょう。
宇喜多直家をネットで検索すると、「裏切り・暗殺の達人」など物騒なコメントが踊っています。
また『岡山市史』で
は、第五十八章「宇喜多直家」に、「直家と信長。二人は其の時代、人物、事業の類似多く」として、六、權謀術數 直家の經略一に術數に依り。惡辣なる手段又多し。・・・三星城に於ける後藤氏等に對する皆、暗殺、毒殺、誘殺の兇惡手段に依れり。人情忍ぶべからさるものを忍んで之を行なへり。・・・戰國殺伐の風漲る時とは云へ惨状目も當てられぬ次第なり」と、織田信長と並列で論じています。
とはいえ、「直家はもと百錬千磨を重ねたる老巧の名將なり。夙に失食の手段に依りて將士を訓練せり。其作戰を見るに五千の兵を五段に分ちて一路直進、連發的突撃主義を行へり。所謂兵書に見るべからざる活法なり」と、戦術に長けた名将であったと論じています。
これとは正反対に、「改修 赤磐郡誌全」には、「要するに、直家は才知武力に富み、早くより地方統一の大志を抱き、着々自己の理想を實現し、殆ど其の目的を達成するを得た。直家は卿土の生んだ一の偉人と云はねばなるまい。然るに彼が死後、嗣子秀家は大立物として長く活動したるにも拘らず、未だ彼が墓標を知る者無しとは如何なる譯であらうか。思ふに彼れは偉人では無い、覇者で有らう。彼れの前半生に於ては、何の缺點も無く、寧ろ模範とすべきであるが、後半生殊に岡山在城時代となつては、彼は外交上に於て、首鼠兩端を有し、攻略には、常に權謀術數を用ひ、暗殺・毒殺・誘殺等の兇惡手段を敢えて行ひ、人情忍ぶ能はず、是れ戰國殺伐の時代とは云へ、實に慘状目も當てられぬものがある。彼れはよく備作二州を切り從へたとは云へ、唯亂世に處し、無知の世と推移して名分を誤り順逆に迷うたため、何等存在の意義を有しないのであらう」と述べています。

以下、その4に続く