ところで「改修 赤磐郡誌全」では、直家が郷土の一番の偉人であり、その子・秀家は、権謀術数にたけ、悪辣なる手段を用いて領国を拡大していった「梟雄」と表現しているわけですから、解釈が大きく異なります。
宇喜多直家・秀家親子の評価については、史料によって異なるのは仕方ないことですし、
彼らが生きた戦国の世では、ごく当たり前だったのかも知れません。
思わずローマの歴史家クルチュウス=ルーフスの有名な言葉history repeats itself.(歴史は繰り返す)が、ふと脳裏を過ぎりました。
宇喜多直家・秀家より古代に遡ってみても、謀殺が行われていた記述が見受けられます。
例えば学校の歴史の時間に「なくよ(794)うぐいす平安京」という年代の覚え方でおなじみの平安京への遷都も、桓武天皇が、自分の弟・早良親王と藤原種継を謀殺したため、早良親王の怨霊に怯え、長岡京を僅か10年で去ることの導線となったという説もあるくらいですから。
そして平安京は怨霊への恐怖から「結界」として、《東》青龍(鴨川)・《西》白虎(山陰道)・《南》朱雀(巨椋池)・《北》玄武(船岡山)が設けられたといいます。※()内は、あくまで一説
話が逸れてしまいましたが、時の為政者によって史実の評価が180度違ったものになることは多々ありますし、否定的な面だけをクローズアップさせるのではなくて、肯定的な面を捉えたいと思います。
岡山が宇喜多直家・秀家親子によって開府され、岡山城と岡山城下の礎を築いたことは、岡山にとって一番の偉人と言っても過言ではないのでしょうか。
言い換えれば、宇喜多氏が存在しなかったら、今の岡山は無かったかも知れません。

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さて戦国の貴公子と呼ばれ、時の天下人・秀吉から、その名前の一字をもらうくらい寵愛され猶子※1となり、更には秀吉の養女・豪姫※2を正室に迎え、五大老の要職を担った秀家も、小早川秀秋の寝返りが無ければ、更に岡山城下を発展させ、流刑地の八丈島でその生涯を終えることは無かったのでしょう。
宇喜多秀家の墓所は、その一生を閉じた八丈島に残っていますが、宇喜多氏の菩提所として、岡山市内にある天台宗・光珍寺※3に位牌がお祀りされています。
歴史が好きな女性、「歴女」にも人気の高い宇喜多氏、彼らが開いた岡山の地で、その足跡を辿るのも素敵なことだと思います。
※1 〔古くは「ゆうじ」とも〕 ① 〔「礼記 檀弓上」による。自分の子供のようなものの意〕 甥(おい),または姪(めい)。 ② 親族または他人の子を自分の子としたもの。養子。義子。《三省堂 大辞林》
※2 前田利家の四女
※3 天台宗 柴岡山 光珍寺 岡山市北区磨屋町 6-28