岡山には、三大河川といわれる吉井川・旭川・高梁川が流れ、農作物、川魚などに加えて、水力発電に水の恵みをもたらしてくれています。

今回は、その内のひとつ旭川について探ることとしましょう。
「東備郡村志」(吉備群書集成)には、旭川についてこのように記しています。
▲旭川。岡山都下を流るヽ大河也。上古には是を蓑川、或は簸川又は氷川と云ふ。中古には、これを西川と云ひ、一名大川と云ふ。蓑川と稱するは、蓑山に蓑里蓑郷蓑縣の地名より出づ。蓑川と稱するは、蓑川の訓轉蓑川に作りしを、ン字の音に呼ものならん。或は、古吉備國を寸簸と書たりければ、寸簸川の略か。氷川と稱するは、簸川の書轉也。古事記に針間氷川の前に於て、忌瓮※を居て、針間を道口とすとみえたる氷川これなり。西川とは、東川に對するの名也。平家物語藤戸合戦の條に、備前國西川尻藤戸に陣を取ると云ふ西川これ也。古戦記に記す所、みな西川と稱す。大川と云ふは、吉備の大島あるを以て、
大島川の略稱かと云へり。藻盬草其他近代の歌枕、松葉、秋の寝覺等に、當國の名所にのせたる大河これ也。

名寄 大河のちかたのべに苅萱のつかの間も吾忘られぬやは

大島は今の岡山大城の地也。往古其邊迄大海なりしとき孤島也。詳に大城の地傳記にせり。旭川とは、最近世の稱也。按に寂蓮法師の

くれて行く春の湊はしらねどもかすみて落る宇治の芝舟

と云歌により、此川宇治郷を流れ、又春の湊と云處あるを以て、山城國宇治の朝日山に擬し、旭川と稱するなる。(以下略)

この備前藩士・松本亮著「東備郡村志」によれば旭川の名前の変遷は、
(上古)蓑川・簸川(寸簸川の略?)または氷川⇒(中古)西川または大川⇒旭川となるようです。

ここで、再度「東備郡村志」から引用することとしましょう。
按に、吉備國を日本紀の釋に寸簸(きび)に作る。然れば吉備は寸簸の轉なるべし。寸簸とは當國に名高き蓑山より起れるか。蓑山とは素戔嗚尊(すさのおのみこと)當國氷の川上にて八跂の大蛇を斬り給ひ又吉備の逆賊を征して其功を終へ、卑賊の姿して敵を欺くの計略に召し給ふ蓑笠を脱捨て、其笠を納め給ふ山と云へり。
蓑川は蓑山に由来し、蓑山から寸簸(きび)川とも呼ばれることとなり、また古事記には、一説として氷の川つまり旭川で素戔嗚尊が八跂の大蛇を退治したという表記が見受けられます。

そして時代は中古となり、西川または大川と名前を変えていきます。
平家物語・藤戸合戦のくだりに「源氏の方では、これを聞き、早速播磨の室を立って、陸路備前の西川尻に向かい、藤戸の渡の左岸に陣を取り、平家はその右岸に待ち構え、両軍ここに海面わずか25町ばかりの間隔てて相対し、相にらみ合っていた」とありますので、この西川は旭川のことを指すのでしょう。
また西川があれば東川もあるのですよね。
水源は美作國西々條郡上斎原村~西々條郡院の庄~上道郡金岡村~海との記載があることから、東川は吉井川を指すのでしょうか。
さらに大川の由来について、同書は岡山城のあるあたりは大昔、海の中に浮かぶ島であり、大島川が省略されたものかと書いています。

そして今の旭川となった由来は、当時、宇治郷(平井・網濱・藤原・國富村・瓶井門前・財村・中島・八幡)を流域とし、新古今集にある寂蓮法師の歌から、春の湊(春の行きつくところ)に京都宇治の朝日山になぞらえて旭川と言われるようになったとしています。
岡山にも当時、宇治郷という一帯があったことも驚きですが、京都の宇治にある朝日山は歌枕であり、多くの歌集に詠み込まれたことからも頷けます。

以下、一部をご紹介します。

天の原朝日山より出づればや月の光の昼にまがへる 西行法師/山家集
ふもとをば宇治の川霧たちこめて雲居に見ゆる朝日山かな 藤原公実/新古今集

《参考》
・吉備群書集成
・岡山市史 岡山市 編 大正9年発行
※神に供えるための忌み清めた容器。いみべ。いむべ。 「草枕旅行く君を幸さきくあれと-すゑつ/万葉集 3927」《大辞林 第三版》