江戸時代、池田光政公の治世、教育の作興が特に特筆べきでしょうか。

戦国の世から徳川幕府による江戸時代となり、それまでの武力統治から文武統治へと流れが動き始めた頃、各藩に先駆けて数々の教育政策を行った池田光政公の功績は、まさに教育藩 岡山そのものだったのでしょう。

光政公は、当初、王学(陽明学)※1を信奉し、中江藤樹に師事を仰ぎ、その中江の門人であった熊沢蕃山を岡山に招聘し、列藩に先駆けて寛永十八年(1641)に藩士の子弟を教育するために、花畠教場を開きます。

この花畠教場の教員は、熊沢蕃山や中江藤樹の息子・虎之助、弟・藤之丞、彌三郎、林羅山の門人・林文内などという豪華な指導体制だったようです。もちろん江戸時代前期における稀代の名君・池田光政公の存在が、この布陣につながったものと推察できます。

とはいえ当時、徳川幕府が国学と定めていた朱子学ではなく、王学(陽明学)を推進したことは特筆すべきことでしょう。

朱子学も王学も孔子の儒教から生まれたものですが、朱子学が「先知後行」という封建主義における為政者の必須であったことに対し、王学(陽明学)は「知行合一」※2に代表されるように実践を重んじたのです。この学問の違いは、さまざまな書籍で読むことができますので、興味のある方はご覧になったらいかがでしょう。

ただ寛文六年(1666)岡山城内に仮学館を開設し、朱子学をメインとして教育を行うこととなりましたが、陽明学の基本は引き続き藩政に生かされるものとなりました。

この後、寛文九年(1669)7月に、熊沢蕃山を明石より招聘し、日本最古の藩校である岡山藩学校が開校することとなります。この岡山藩学校は明治4年(1871)までの203年間の歴史を誇りました。明治以降、女子師範学校となりますが、その面影を、今でも岡山市立岡山中央中学校(北区蕃山町)に記念碑として見いだすことができます。

さて藩士の子弟の教育について見てきましたが、庶民に対する教育も光政公は当然目を向けていました。

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光政公が、岡山藩郡代であった津田永忠に命じて、庶民の子弟の教育を目的として、寛文十年(1670)に開設された日本最古の庶民学校である旧閑谷学校がその代表例でしょう。

この旧閑谷学校は、昨年、旧弘道館(茨城県水戸市)、足利学校跡(栃木県足利市)、咸宜園跡(大分県日田市)とともに「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」として日本遺産に認定されています。

また吉備温故秘録(習学武技)には、これより習学所として、先の寛文八年(1668)に、庶民のための手習所が開設されたことが記載されています。

当時、既に綱政に藩主の座を譲り渡していた光政公ですが、この手習所の開設は、自ら命じましたが、後年、綱政と同調し、手習所を廃止し、書籍などを旧閑谷学校に集約したとされます。

寛文八年、郡々に手習所を立て、百姓の年少之者手習、幷算用、又學文すべき旨命ありて、追々土木を起しける。此時、岡山にも手習所を建らる。あくる九年七月十日、命ありて兒嶋郡手習所入用之薪は、小生とも在所より銘々持はこぶべしとぞ仰渡されける。

尤師役として、其郡の醫師の子弟、或は浪人、又は岡山歩行者等行てつとめけるにや、手記所の内、閑谷は寛文十年に至り、學校を建らる。延實二年(1674)十二月五日命あつて自今以後、手習所一郡に一所づゝたるべき旨仰ありて、都合十二ヶ所に定められしが、同三年、烈公(光政)・曹源公(綱政)迎合され、爾来手習所は廢すべしとの事にて、九月九日命下りけるは、手習所を取崩し、其家をば閑谷學校へ移し、家なき者に賜り、又、手習所の書籍等も残らず閑谷學校におさめられる。

光政公の藩士の子弟だけではなく、庶民の子弟にも教育の場を与えるために、日本で初めての学校を開設したことは、本当に素晴らしいことだと思います

もちろん質実剛健の光政公が、王学(陽明学)を信奉したことにも大きな要因があると思います。

でも江戸時代前期における三名君の一人・池田光政公によって、岡山は名だたる教育藩であったといっても過言ではないでしょう。

 

《参考》

・岡山市史 岡山市 編 大正9年発行
・池田光政公伝 石坂善次郎 編 昭和7年発行
・吉備群書集成第九輯 吉備群書集成刊行会 昭和6年発行
※1 陽明学 王学ともいう⇒陽明学の中国での呼称。《大辞林 第三版》
※2 知識と行為は一体であるということ。本当の知は実践を伴わなければならないということ。▽王陽明が唱えた陽明学の学説。朱熹(しゅき)の先知後行説に対したもの。《新明解四字熟語辞典》