塩専売いえば、昭和60年(1985)に日本たばこ産業株式会社が設立されるまであった日本専売公社を思い起こされる人も多いと思います。
この塩専売制度は、明治38年(1905年)に、塩の需給と価格の安定のために始まり、平成9年(1997)に廃止となった後、「塩事業法」に則り、原則自由の市場構造へ変わっています。

さて今回の話題は、岡山藩における塩専売制度のお話です。
江戸時代の専売の目的はといえば、領内の特産物を一手に扱うことにより、その利益を追求し、藩の財政窮乏対策として、また特産品の育成も兼ねて行われました。
藩による専売制は、各藩において行われていましたが、他国産の流入を禁止し、自国産のみを流通させていた例も見受けられます。
岡山藩においては、もともと享保九年(1725)に塩問屋一同が、運上取立てを口実として、問屋株の公認を求めたことがありましたが、運上を取り扱うものは他にもいた(「前々より問屋株立候儀にても無之、御運上取立候者は外に有之、指支申将にても無之云々」)の理由をもって却下されていました。
ところが享保十四年(1730)にいたって、醤油醸造など大量の塩を扱う業者があることから、徴税上の不便が生じると判断し、ついに塩問屋株を公認、問屋以外の塩の直接買入れを禁じるとともに、塩運上の取立て方法を改めることとなりました。
この中で、運上を課税するにあたり、塩の区別が必要とされましたが、自国塩には産地名主の指紙を添付し、指紙が無いものは他国産同様の扱いとして、当初は税率を変えていたものの、後年には課税上の区別は撤廃されました。

問屋株のお話はこれくらいとして、岡山藩の塩専売について、経済史研究「岡山藩に於る塩専売」から引用することとしましょう。

一、御國産鹽於御國元不殘御買上相成諸國買積廻船の儀は御國元にて夫々賣捌に
相成候、尤播州灘井泉洲堺右両處へは積送り不致、上み積の儀は當處御藏屋敷へ爲積登に相成不殘入札にて御賣捌被爲成候御事。
一、御國産鹽一俵四斗八升に仕立、澟々に寄、鹽善悪を見分、上中下三段に相究、則御國元鹽會處にて御取締釜屋番附中札入にて爲御差登に相成候事。
尤船積之節右上中下夫々送り状へ相記し候事。
一、鹽百俵宛切手賣に相成候事。
一、大阪賣切手を以て國元にて他國積可爲勝手候、但し國元渡百俵に付三十目宛船賃引として御戻しに相成候事。
一、大阪鹽會處之外井尼ケ崎、堺、兵庫、灘右五ケ處へ御國産鹽積送り賣捌一切不相成段於御國元御吟味有之事に候得共萬一御國元にて他國積と相唱右五ケ處之内へ抜け積致候者有之候はは早速鹽會處へ船頭名前可申出候、若聞捨其儘に致候節は相互に猥りに相成候に付精々相糺可申候事。
一、御入札日之外一切賣出し不申候事。
一、御國産鹽賣捌入札人名前左の通
(天満屋七兵衛外九名、名前略す)
右十人之外入札落札等決て不相成候様入札人之内申合不實の入札致候者有之候節は一統之越度可爲候事。
一、落札人翌日百俵に付金二歩宛入金差入、御切手引替に成候事。
一、鹽荷物藏出し前日御切手と積切手と引替へ順番之通荷物請取可申候事。
一、落札毎月二十二日迄の荷物請取方月越に相成候はは百俵に付五匁宛藏敷相掛り
候事。
一、落札鹽代銀毎月晦日御皆可仕候尤金相庭中直に相納候事。
一、毎月二十三日より後落札鹽代銀翌月晦日御皆納仕候自然取引不埒の者出来候はは御産物會處名前御取上げに相成候尚亦一旦名前御取上げに相成候者へは御國産鹽銘々共より決て賣渡申間敷候事。
一、毎月晦日鹽代皆納之外壱貫目に付貳拾目宛上掛りにて皆納可仕候事。
《弘化三丙年備前御産物鹽入札御仕法》

ここで注目したい点は、岡山藩産出の塩は国元で残らず藩が買い上げ、諸国へ売却する分は国元でそれぞれ売捌き、上方へ送るものは大阪の蔵屋敷へ送って、そこで残らず全てを入札で売却することと書いてあることです。
また塩専売の流れとして、大阪の蔵屋敷に納められた塩は、天満屋七兵衛ほか九名の問屋により、日にちを定めて入札を行い、落札者を決めるものでした。落札した仲買商人により、更に需要者へと売り渡されることとなります。
ところで現在では、オークション等で落札して代金を支払えば、輸送に要する時間は別として、直ぐに商品が手に入りますが、岡山藩では、落札者が即、塩を受け取ることは出来ず、切手による取引形態をとっていました。
そして落札者が塩を受け取るためには、落札の翌日に百俵につき金二歩を支払い、切手と引き換え、更に蔵からの払い出しの日の前日に、切手を積切手に引き換えた後、払い出し当日には切手に記載の順番で受け取ることとされていました。
なお毎月22日までに落札した塩を、その月内に蔵出しせず、翌月に持ち越した場合には、別に百俵につき金五匁の保管料も必要とされました。
また塩の代金は、毎月22日を締め切りとして、当月末までに全額支払わなかったり、不祥事があれば二度と入札は出来ませんでした。
さらに毎月晦日には塩代金全額を納めた上に、一貫目に付き二十目宛の運上を納めることが定められていましたので、単純に塩の代金を支払うだけでは手に入らなかったのです。
この塩を藩が一手に扱うことによって、どれだけの経済効果があったのか、知る由はありませんが、需給と価格の安定より、藩の経済立て直しのための窮余策であったことは否めません。

参考
・岡山市史 大正9
《引用》
・経済史研究「岡山藩に於る塩専売」 本庄栄治郎 著 大正13