岡山藩に盗賊奉行という職制があったことを見つけて、まず思い浮かんだのは、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」でした。主人公・鬼平こと長谷川宣以(1745~1795)は実在した人物ですが、彼が任ぜられた火付盗賊改役について、江戸の市井の人々は、町奉行を「檜舞台」と呼んだのに対し、火付盗賊改方を「乞食芝居」と呼んで蔑んでいたそうです。もちろん今でいう東京都知事的な町奉行と戦国の流れを汲み機動性を以って悪党の取り締まりを行う火付盗賊改方では比べること自体、問題があるのかもしれませんね。
さて岡山藩の「盗賊奉行」について、ご紹介することとします。

【盗賊奉行】
元禄十一年戊寅始て置ける。今までは盗賊せんさくの事、郡代・大横目等より諸事支配しけるが、此事改革ありて、三月十三日に大野十兵衛(五百石、鐵砲頭にて其儘。)水野
作右衛門(千石)両人を盗賊奉行とせらる。去ながら、此両人ばかりにて諸事吟味するにはあらず、今迄の如く郡代・大横目等も列座せしか共、司る所は大野・水野両人にて萬事
裁断しける也。同十二年己卯七月二十六日水野作右衛門をゆるされ、(船奉行となる。)其代りに山田彌太郎(三百五十石、鐵砲頭にて、)を命ぜられし。かく二人役にて勤めしが、何ぞ不便利の事ありしや、同十四年幸巳七月に大野・山田両人とも旗奉行になれば、當役は止しといふ。(将軍家の外、國主にても、盗賊奉行はなさゞるによって、公儀を憚り止らるゝといふ。未詳。)
《吉備温故秘録 巻之九十六》

岡山藩に盗賊奉行が置かれたのは、元禄十一年(1698)となりますから、元禄時代の出来事で有名な赤穂浪士討ち入りが起る4年前となります。
前述の火付盗賊改は、明暦の大火以降、江戸の町に放火・盗賊が横行したため、寛文五年(1665)に置かれたとされますから、その職務に差異はあるものの、約33年後の設置となります。
ただ火付盗賊改が江戸だけに行動範囲が限られなかったことに加えて、即断が許されていたことは冤罪を生み出す温床となっていたのかもしれません。
これに対して、岡山藩の盗賊奉行は、盗賊を詮索し、裁断を下すものの、従来と変わらず郡代・大横目も詮議に同席していたようですから大きく異なります。また、盗賊奉行が廃止された理由は、公儀以外、このような職制を置いていないことからだったようです。

さて江戸で町奉行と火付盗賊改方について述べましたが、もちろん岡山藩にも町奉行の職制はありました。
町奉行の心がけについて、寛文十一年(1671)辛亥御教書からご紹介しましょう。
【町奉行】
一、先、心を正して、義を明にするを本として、其職を相勤事。
一、町中の風俗善に移り候様に、常々心を可盡事。
亥三月四日
【御町奉行】
一、きりしたん改、其外公儀御法度は不及申、年々被仰付候御國法、堅相守候様に、町中へ常々可申附事。
一、町中、諸事正路に被致沙汰、猥に人を信じ、事をまかせ、上下遠く、櫂高く無之様に、可被相心得事。
一、町方は、貴賎諸方に對する事に候得ば、町に利有之事、他の障に不成様に了簡可仕事。
一、町惣年寄の義は不及言、一町の目代・年寄に至迄、直成者を撰可被申附候、末々の義迄承届、徒に暮し候ものは逐吟味、家職に怠て不及困窮様に可被相心得事。
亥三月四日

この御教書からすれば、町奉行の職務として、当時、禁教とされていたキリスト教の取締り、公儀の定めた法令は言うに及ばず、岡山藩独自の法令を厳守するように町中に徹底させることだったようです。まさに職制としては、地方自治体の首長だったのかもしれません。

さて裁く立場の奉行が拠りどころとする法令はどのように市中に伝えられていたのでしょうか。
岡山市史には「藩の法令は、仕置職の署名を以て、諸頭、諸奉行に通達し、又町手に在りては、町奉行の名を以て、町中一般に公布せり。而して之が公布の形式は、口達及び觸の二方法に依れり。口達は口頭に依り、觸は文書を以て一般に周知せしむ」とあります。
このことから原則、口頭によるもの、お触れという文書によるものがあったと思われます。
また、この他にも、時代劇でお馴染みの高札ですが、岡山にも、もちろんありました。
天和二年(1682)五月に京橋際に設置されていたとの記載が見受けられますが、盗賊関連の文言が見受けられますのでご紹介しましょう。
「盗賊並に悪黨(党)者有之は、訴人に出べし。急度御褒美可被下之事。附 博奕堅令
制禁事。」
「盗賊など悪人を訴え出たものには、ご褒美が出るよ」とし、町中の人々による相互監視の中から、犯罪者を炙りだす意図があったのでしょうか。
《参考》
・吉備温故秘録 昭和7年発行
・岡山市史 大正9年発行