さて、小堀遠州について、昭和十七年(1942)に発行された「龍居松之助著 近世の庭園」には、第二節 江戸初期に於ける庭園の典型 小堀遠州の造園主張」という記載が見受けられます。
その中で、大名庭園に見られる廻遊式庭園発展に小堀遠州の功を外すわけにはいかない、そして遠州が江戸時代初期の生活様式、趣味、傾向に至るまで熟知し、鑑賞的にも、実用的にも価値あるものになるように努力したと述べています。
また、明治二十九年(1896)年に発行された「偉人史叢 第七巻 小堀遠州 本阿弥光悦 合」には、第七章 結論に、遠州が伏見奉行の要職に就きながら、公私の建築・作庭を行い、加えて茶器から工芸品に至るまで、他人を交えることなく、自らの意匠を施して、世にもてはやされたと述べています。
ところで、「近世の庭園」の中で、大名庭園が、この時代なぜ大規模なものが多くなったかについて、明暦大火※以降、家屋は実用主義となったものの、江戸における大名屋敷に至っては、上屋敷の他に、中屋敷、下屋敷という広い屋敷を別邸としていたことに加えて、茶会が大名等の上流社会において流行したために、社交を目的として茶室を庭園内に競って作らせることとなったと述べています。
この小堀遠州は、茶人としても卓越した人で、利休七哲の古田織部正に師事し、茶道の本流を極めています。
ここで遠州と織部について「近世の庭園」には、「然るに遠州が直接茶を學んだ古田織部正は、利休の侘を會得し、更に師の主張を敷衍して、一層これを潤色せしが如く、古書畫古器物を得る毎に、その儘用ゐずして一旦これを打ち壊し、更に修繕して幽趣を出すといふ如き技巧に努めたと傅ふる一事を以てするも、彼の主張の一斑が窺はれるのである。併しながら織部正の技巧は元来利休の侘に出發したるものであつて、彼が幽趣を出さんと欲して此の如きことを敢てしたる點に最も注意すべく、彼と雖自然の風趣を楽むといふことに立脚したことは忘る可らざることである。
我が遠州は實に斯の如き人について侘主義に立脚する技巧主義を傳へられたのである。それ故若し平凡なる茶道の一宗匠であつたならば何等躊躇する所なく、師織部正の流を汲みて之を墨守したことであらうが、彼には師の主張を本當に理解すると同時に、その由来する所を研究し、珠光以下利休に至りて完成せられし侘なるものを會得し、これを時代の生活と趣味傾向とに適應せしむべく苦心し、彼自身の主張として表現し得るの慧眼を有してゐた」と述べています。
つまり千利休、古田織部と続いた茶道の本流を受け継いだのみならず、時流の流れを加味した遠州独自の境地を開くこととなります。
この遠州の境地は、「綺麗さび」という幽玄・有心の「遠州流茶道」として受け継がれていることも事実です。

以下、その3に続く